月に祈る
あおい満月

蟹は、
何かの匂いを感じると、
月をぐるぐるまわるように、
先へ先へと急ぐ。

何かの匂い。

それは芳しい花の香りではない。
じっとりとした、
タールのような
油の匂いだ。

蟹は油を被りながら、
干潟のへどろの海のなかを駆け回る。

*

(ムナクソガワルイ)

今夜は月が見えないせいか、
彼女の胸元のムーンストーンが
沈黙している。
彼女にはわかっている。
自分の大切にしている、
分身に黒い影が近づこうとしている。

(マモラナクテハ)

彼女は彼が開いた口を、
今すぐ塞ごうとする。
彼女は彼が口を開く度に、
彼がどれだけの代償を
支払ってきたのか、
彼女は彼の、
赤く腫れ上がり皮の剥けた
手のひらを抱きしめる。

(マモラナクテハ、
ナントシテモ彼ヲマモラナクテハ)

彼女を包み込む60兆もの、
細胞という細胞がざわめき、
騒ぎだす。
割れた窓硝子、
吹き込んだ旋風が、
彼女の髪の背中を叩く。
彼女は渾身の力を振り絞り
立ち上がる。

**

干潟の蟹の母たちは、
満月の夜に綿菓子のような、
白い泡を吐いて卵をあたためる。
母たちは、
母たちだけが知っている。
この子たちが大海原に翻弄され、
どれだけこの場所に帰ってこれるのか。
きっと、
指の数程だろう。
母たちは月に向かい涙を流す。
月は青白く、
蟹の母たちの青い瞳を照らしている。

***

彼女は月に祈る。
彼女の手料理を食べて、
満足げな笑みを浮かべて
帰っていった彼の背中を。

(ドウカ波二マケズニココニカエッテキテ)

月は青白く彼女の蒼い瞳を照らしている。



自由詩 月に祈る Copyright あおい満月 2016-01-03 19:57:58
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