ミサ
ホロウ・シカエルボク






凍りついた脳髄は断片的な記憶ばかりを吐き出し、当然の如くそれは順序通りなどである筈も無く、たとえ拾い上げて並べてみたところで穴ぼこだらけで見られたものじゃない―古い舗装道路は山の麓で行き止まり、舗装の途切れるそのあたりで打ち捨てられた廃車がひとつ、その中で死にかけたまま生き延びてしまっている女―その女の状態は酷いものだった、手足の末端は凍傷にかかって萎びた野菜のように黒く弛んでしまっていて、そこに続く皮膚もモザイクタイルのように様々な色に変化している、もうたとえ本人に動く意志があったとしてもなにひとつ動かすことは出来ないだろう―四肢はそんなふうだったが、冬物の衣服によって幾重にも守られていた胴体はまだ生き残っていた、と言っても、必要最小限の生命を維持するくらいの力しか残ってはいなかったが―そこにはまだ呼吸が行われていることを示す胸部の上下運動があり、その運動はまだ確かな生命を語るには充分なレベルだった、顔は―痩せ衰えていておまけに表面が死にかけており、片目は開くことが出来なくなっていた、右目だけが大きく開かれていて、そこに見える光は大分心許ないものではあったがまだなにかを語ろうとしていた、誰かが自分を見つけてくれないかと願っているのだろうか、絶えずぎょろぎょろと皮膚の渕を撫ぜていた―すべてが凍てつくほど寒い地域ではなかったが、そんなところで幾晩もを凌げるほど優しい季節ではなかった、女がそこにもぐりこんだのは三つか四つ前の夜のことであっただろう、もっとも、そこにもぐりこんだときにどういう状態だったのかまでは知る由も無いけれども―女の脳味噌はだけれど、まだやはりかろうじて生きていて、様々な考えが明方の夢のように繰り返されていた、わたしはどうしてこんなところに居るのだろう、とりとめもない思いの中で何度も繰り返されるのはそんな問いだった、女にはそのことがどうしても思い出せなく、また、そこに至るまでの数時間、あるいは数日のことも、まったく思い出すことが出来なかった、自分が何事かを目論んでここへ来たのか、あるいは誰かに連れてこられたのか―まったくなにも思い出すことは出来なかった、自分の存在を認識し始めたころにはもう四肢は駄目になっていた、凍え、失われたことで本来の自分を取り戻したのかもしれない、身体の奥底に眠る生命体としての本能が、彼女を正しいところに戻したのかもしれない、でもそれが、良いことなのか悪いことなのかは判らなかった、おそらく誰にも判断することは出来なかったであろう―彼女自身にもだ―女の名前はミサと言った、どこぞの有名な高等学校の生徒であり、成績も優秀だった、そして美しく―それだけならどこの学校にもよく居るマドンナ的存在というやつだった、だが彼女はその役をこなすには少し賢過ぎた、勉強が出来るのではなく、頭が良かったのだ、彼女は次第に自分が住んでいる空間を気持ち悪く思え始めた、家族、級友、教師、その集まりの中にある真意というものが読めなかった、何のためにそんなものが存在するのか、何のために彼らは毎日を生きているのか―次第に彼女には彼らが人間の顔をしたなにかべつの生きものであるように思えてならなかった、彼女にとってなによりも不幸だったのは、彼女自身がその考えを完全に肯定することが出来なかったことだ、思春期の少女にありがちな自惚れのこじれたものかもしれない、そうした懸念を彼女は拭い去ることが出来なかった、だからすべてを理解出来ないまま受け入れようとするうち彼女は壊れていった、でも、人の居るところでその兆しが現れることは決してなかったから、彼女が二度と出られない穴の中に飲み込まれていっていることなど誰にも判らなかった、彼女の存在に関心を持っていた人間は腐るほども居たというのに―それでも彼女は、ミサは、もう狂気も正気もどうでもよかった、自分が正しかったのか間違っていたのかなんていうことも―だってもう自分は終わってしまった人間なのだから、そうしたことのいっさいを乗り越えることが出来なかった弱い人間なのだから―もう満足に動かすことも出来なくなった身体でどんなことを修正出来る?もうどうでもいいのだ―ゆがみ、汚れた廃車のフロントガラス越しでも冬の美しい夜空を見ることが出来た、凍えたってあとちょっとだ、痛みも、苦しさも、もうあんまり感じない―もしかしたらそれは今夜かもしれない、今夜眠るつもりで目を閉じれば、そのままこの不自由な肉体を離れることが出来るかもしれない―自分の身体の中にもう生命を燃やす燃料が無いことも判っていた、もうすぐ―彼女は生まれて初めて安らいでいるみたいに思えた、不確かなものに囲まれて生きていた自分にとって、それだけが確かなものだった、みんなはわたしが狂ったのだと思うだろうな、とミサは考えた、でも違う、わたしは、こんな時間が欲しかっただけなのよ―そうして、その時は訪れた、彼女の頭の中であらゆるこわばりが瞬時に消え去り、眩しい光が広がった、ああ、やっと来た―彼女はすべての終わりを感じた、そして、静に目を閉じた―


だが、彼女は存在がこの世にほんの僅か引っかかった状態で発見され、病院に保護された、病室で注射と点滴を受け、駄目になった四肢は切断され、丁寧な治療が施された、一週間後の深夜、目を覚ましたミサは一晩中言語化出来ない奇妙な叫び声を上げ続け、鎮静剤を打たれてもそれが止まることは無かった、明方にどす黒い血を吐き出すまでそれは止まらなかった


それから彼女はまたも治療を受け、錯乱を防ぐための処置がいろいろと施された―状態が落ち着くと彼女の母親が病室に訪れるようになった、そして、食べるものの居ない林檎を剥いたり、聞くものの居ない世間話を夜になるまで続けた


ミサは、寒天のような目で天井を見つめ続け、ぽかんと口を開けて、腕から栄養を注ぎ込まれ、それから十年ほど生きた―生温い梅雨時の朝に、なんの予兆も無く突然、死んでいた



母親がたまたま遅れてやって来たその朝のことだった。






自由詩 ミサ Copyright ホロウ・シカエルボク 2016-01-01 00:36:59
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