歩く耳
あおい満月

私の耳は雑踏を歩く。
歩きながら無数の罵倒を食べている。
ある声は街中でぶつかりあった肩に
舌打ちし、
ある声は、休日の電話に悪態をつき、
ある声は、暖かな午後に寒いと言って愚痴を吐き、
ある声は、真夜中の明かりが五月蝿いと
枕元で毒を吐く。
私の耳は一日中歩き回り、
このような声を食べている。
食べては脳裏の一番奥の小さな台所で
料理をする。

*

包丁を握る手が止まらない。
手は、腸のように伸びた人参を刻む。
刻んでも刻んでも、
人参は細かくはならない。
諦めてフードミキサーにかけて
大分細かくはしたが、
よくよく目を凝らすと、
新聞の切れ端のような文章が、
増税反対と唾を吐いている。

**

玉葱は知らない。
自分のために泣く人間の姿など。
けれど玉葱は、
切られたくて堪らない。
自分の身体から滴る汗が
世界を救うことだけは感じるから。
けれど、何故人間は自分のために
泣くのだろうか。
誰かの手をすり抜けて、
玉葱は考えてみる。
やはり、このきつい体臭のせいなのか。
ああああ、こんな皮さっさと脱いで、
トマトのような赤い瑞々しいドレスを纏いたい。

***

肉を捏ねる手が、
捏ねるごとに感情を増して、
爪が鋭くなっていく。
卵とパン粉を混ぜる。
卵のぬめりとパン粉のがさつきが、
荒れた手の皮膚に入り込み、
毛孔たちの眠りを揺する。
それでも捏ねる手は止まらない。
ぐしゃり、一掴みして
楕円形に丸めていく。
手は不思議だ。
このときだけ、
まだ未知な母親に変わる。

****

小さな子どもと遊ぶ夢を見た。
子どもの母親は私の友人だ。
けれど、
父親だけは違う。
友人の旦那ではない。
父親はふらりと出ていき、
なかなか帰らない。
しびれを切らした私は、
友人と子どもを残し、
父親を探しにいく。
なかなか見つからない。
急がなくては、
作ったばかりのハンバーグが
冷めてしまう。



自由詩 歩く耳 Copyright あおい満月 2015-12-26 20:02:44
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