(1/3)伊勢うどんをマフラーに
吉岡ペペロ
バスで朝日を浴びていた。ハロー、ハロー、こちら太陽系第三惑星地球、バスは太陽を左手にまっすぐ進んでいた。
日の熱が生理のときの頭痛のように左頬とこめかみから立ち去らない。しばらく目を閉じた。顔にあった日射しの気配が消えて、目を開けてみた。朝日がこんどは右手前方から射していた。太陽をもう一周してしまったかのようだ。あたしは眠たい目に手を当てた。なんだか一年が経ってしまったみたい、それがあたしの胸を鈍く痛ませた。
よこに座るアーヤを抱き寄せる。そしていつもしている自分への問いかけを始める。
「一年後のことも、十年後のことも、あたしには想像がつかない。近道でなくてもいいから、遠回りでいいから……を教えて」
教えて欲しいことが方法なのか理由なのか、わからない。
アーヤは目が見えない。耳も聞こえない。
バスにはぱらぱらと客が乗っていた。観光客ばかりだ。同じホテルの宿泊客だった。
乗車したときまだ体臭におかされていなかった車内に、もう老人たちの匂いが漂っている。「アーヤも老人になれるだろうか」
あたしたちにとって初めての旅だった。
アーヤのハンディキャップのことなんて結局言い訳だった。こうやってふたりで旅行が出来ている。旅を楽しむかのようにいい子にしている。アーヤにしたら毎日が旅のようなものなのかも知れない。
目と耳に障害をもつアーヤの世界は、彼女が触れるものはすべて、とつぜんパッとあらわれてはパッと消えていく魔法にかかったような世界なのだと、家に来てくれた専門家のひとが言っていた。目が見えていたら教えなくても分かることが、耳が聞こえていたら教えなくても分かることが、アーヤには分からない。アーヤがすこしむずがった。ハロー、ハロー、心でそう唱えながら、あたしはアーヤの頬やらマフラーに手をいれて首のうしろやらを触った。たまにぐずるぐらいでほんとうにいい子にしてくれている。バスは二見浦輿玉神社に到着した。
夫婦岩までいく道すがらとつぜん風が凄まじくなった。抱きかかえたアーヤが飛ばされそうだ。
アーヤのマフラーがゆるんでいた。結わえなおそうとしたらマフラーが宙に吹き飛んだ。
ガイドさんが追っかけてくれたがマフラーは海のうえに浮かんでしまった。朝のひかりに海がめらめらと光っていた。あんまりまぶしくてあたしはマフラーを見失った。
あたしがマフラーに手を突っ込んでアーヤの首やらを触っていたのが悪かったのだ。ガイドさんが、「気になされないでください。この季節は風が凄くつよくて、こんなことがよくあるんですよ」と慰めてくれたが、もっと早く言って欲しかった。
アーヤが落ち着かなくなった。ちいさな手を首にさ迷わせている。マフラーが消えたからだろう。アーヤにはマフラーがもう戻って来ないことが分からない。またすぐパッと現れるような心持ちなのだろう。それが間違いだと分かったところで、子どもなら誰しもこんな感じなのだろう。ことさら劣っていると思う必要はない。専門家のひとが言っていた。
ガイドさんが神社の神使がカエルであるいわれなどを説明してくれている。そのあとをついていくとすぐに夫婦岩が現れた。
あたしは詩人でもなんでもないが、夫婦岩の海上に出た大小ふたつの岩をむすぶ綱を見つめていると、あたしとアーヤの絆のような気がした。
バスに戻ると、むずがるアーヤを心配してくれたご婦人が、
「よかったら、私のマフラー使ってください」と声を掛けてくれた。借りてしまうといろいろ喋らなければならないような気がして、あたしはその申し出を断ってしまった。あたしは手のひらでアーヤの首まわりを温めた。アーヤがまだ諦めきれないようすだった。こんなことはよくあること。それが優しさなのか真実なのか、つぎの目的地までバスに揺られながら考えていた。
あたしは職場の改善提案で会社から最優秀賞をもらって副賞の旅行券を手にいれた。
いつもアーヤの面倒をみてくれている母に友達と温泉旅行にでも行っておいでよと渡そうとしたのだが、母が遠慮した。アーヤとおまえが行っておいでよ、わたしは家でのんびりさせてもらうよ、母にそう言われてあたしは言葉がつまった。そんなの無理だ。アーヤに旅行なんて無理だ。アーヤとふたりきりで出掛けたことも最近では数えるほどしかない。自分が恥ずかしくなった。どれほど母に任せっきりにしていたのか。
それがふたりでお伊勢参りをすることになったのは一ヶ月に一度会うあの人が原因だった。
あの人はあたしのもと旦那。アーヤのこともあるし家計のこともあるから産休が切れる頃、あたしたちはあたしの母と同居した。
家事という家事は母が取り仕切ってくれたのだが、あの人とは日に日にうまくいかなくなった。
「アーヤのことを考えたら、なんできみが仕事を続けたいのかが俺には分からないよ」
あの人はあたしに仕事をやめろだとか現実的ではないことを言った。あたしだって好きで働いている訳ではない。出来ればアーヤと一緒にいたかった。稼ぎだってあの人とそう変わらない。これからどれだけお金がかかるのか不安じゃないの、それならあなたがやめたらいいじゃない、そんな一触即発のあたしたちの空気に母も困憊し始めたとき、あの人から離婚の話が出た。
あの人とあたしとアーヤはあたしたちが昔いきつけにしていた飲食店で月に一度会う。いろんな飲食店にいくのだが、お店のひとはあたしたちが離婚していることを多分知らない。アーヤに障害があることも多分分かっていない。
ところがあの日あの人はタイ料理の店であたしたちの前で泣いた。
「なんでこんなことになったのか、かわいそうなことをしてごめんな。俺はただ、毎日俺だけがソファーで寝るのが嫌だっただけなんだ」そう言って泣きじゃくった。
運ばれてくるタイ風オムレツやパパイヤサラダを取り分けながら、
「かわいそうって、なに、どういうことよ」
あたしはあの人の顔も見ずに吐き捨てるようにしてつぶやいた。そして、
「あたしこんどアーヤとふたりで旅行するの。会社で表彰されて旅行券もらったんだ」
そう言ってあの人をにらんだ。
あの人はまだ泣き足りないようだった。ふつうどこに行くのぐらい聞くだろうがと思いながら、あたしはどこに行こうか考えていた。
タイに行こうかと思ってるのと言いそうになって、あたしは咄嗟に伊勢に行くのと口に出してびっくりした。
「なんで、伊勢なの」
あの人がきょとんとした顔をして聞いた。あたしもきょとんとした顔をして言った。
「テレビでやってたから」
それは確かに本当だった。何気なく見ていたテレビで式年遷宮がどうたらこうたら言っていたのだ。
自由詩
(1/3)伊勢うどんをマフラーに
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吉岡ペペロ
2015-12-20 18:43:10