自動車
葉leaf

自動車には神が宿っている。そう確信したのは、運転を始めて一年ぐらい経った頃だろうか。自動車が人間とは独立した別の人格を備えていることは、乗り始めてすぐにわかった。自動車は人間の命令通りに動いているようでありながら、その命令についていろいろ考えて判断しているように思えたのである。自動車は人間の手足が延長されたものではなく、独自の思考回路を持ったひとつの頭脳を搭載しているものだと私は思った。
そして、自動車は私の危険を幾度となく回避してくれた。あるときは、自動車でやって来たことを忘れて大酒を飲み、帰る手段もないためやむを得ず飲酒運転をして自宅まで帰ったことがあったが、私には運転した記憶がないのに翌日ちゃんと自分の家で目を覚ました。またあるときは、連日の残業により睡眠不足となりつい運転中に眠ってしまったのに、ちゃんと出張先までたどり着いてしまった。私はこれらを決して自分のなしたことのようには思わなかった。何か超越的な意識が介入することで自動車は私を救ってくれたのだと思い、畏れに打たれひれ伏した。
それだけではない。自動車はその発明以来瞬く間に数を増やし、今では地球の表面を余すところなく覆っている。この繁殖力には何か秘密があるとしか思えない。自動車の発明自体、超越的な意識の介入による神の必然のように思えるし、その後の自動車の発展や普及については、神の意志が介入しないことには不可能だったように思える。私は自動車の宗教的な意味について興味を抱き、大きな書店の隅っこで、ついに自動車と神との接点を説く書物に出会った。
私はその書物の著者と連絡を取り、今では自動車神を奉る教会の理事をしている。私たちの教義はごくシンプルなものだ。自動車を運転するとき、私たちの意識は自動車の意識と混ざり合う。そして、自動車の意識には自動車神の意識が分け与えられているわけであり、私たちは自動車を運転することを通じて自動車神と合一する神秘的な体験を得ることができるのだ。運転がもたらす神との合一によるエクスタシー。私たちの宗教は瞬く間に信者を広げていった。
運転にエクスタシーを感じる若者は爆発的に増加し、無謀な運転は多発し交通事故は急増した。社会は未曽有の交通戦争の様相を呈した。だが私たちは動じない。これもまた神のお導きなのだ。神の超越的な意識が、今若者たちを選別している。今、神は、将来世界文明の繁栄をもたらす若者だけを選び取って、無駄な人間を間引いているのだ。そんな私も、つい最近交通事故を起こして即死した。私もまた間引かれた不適格な人間だったわけだ。すべては神のお導きのままに。


自由詩 自動車 Copyright 葉leaf 2015-11-22 05:07:32
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