悟り
葉leaf

もはや夕焼けを通り越した。落ちた日の残照によって、果樹園の木々は暗く色づき、その日の生命を一度閉じる手前に来たかのようだ。中学生の頃の私は、学校帰りに果樹園の中を走ってくると、その中の一本の樹の根元に腰を下ろして、おもむろに瞑想を始めた。こうすればこの穢れた俗世を超越する悟りが開ける、そう思った。悟りは来なかった。だが、秋の虫の声が聞こえる中、沈みゆく世界と自己が肌で激しく接触する官能に、私は身震いするのだった。私はそこで、精神と身体と世界とが接して和解するような澄んだ感慨を幼いながらに感じたものだった。

高校三年のとき、私は友人に次のような年賀状を送った。「僕は何度も真理を垣間見ました。ところが眼が真理を捕えたと思った次の瞬間、真理はもはや何億光年もの彼方へと飛翔してしまっているのです。真理はその存在の影を感覚させながらもその内容を決して認識させない。痕跡でも幻でもない存在の影として、真理は僕から何度も逃亡しました。真理に到達したという目の覚めるような恍惚の次の瞬間には、真理を捕え損ねたという失意が僕を包み込むのです。」

20代半ばごろ、私は自分の感受性を持て余していた。異様に研ぎ澄まされた感性によって、次から次へと思想や認識や創造のアイディアが閃くのだった。物事が閃く際のエクスタシーに私は酔いしれたし、半ば中毒に陥っていた。私は旺盛に思索し、詩作し、批評し、文章を綴り上げた。自らの精神と世界とが何らかの均衡に達した刹那、感覚的創造が閃き、私の身体は快楽の毒を大いに摂取するのだった。

悟りとは何であろうか。それが世界の真理の把握におけるエクスタシーであるならば、私は決して悟りに辿り着けない。だが、私は世界の真理とすれ違うだけで、あるいは世界の真理から流れ出てくる具体的内容を感受するだけで、十分なエクスタシーを感じることができる。神がいなくとも、真理が存在しなくとも、俗世の雑事の中に悟りに代替するものがある。私は進んで俗世に呑まれていく。そこで得られる無数の閃きは決して悟りに劣らないと確信している。


自由詩 悟り Copyright 葉leaf 2015-11-11 05:02:27
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