蟹妻
チアーヌ

朝目を覚ましたら、隣で眠っているはずの妻が、蟹になっていた。
かさかさ、もぞもぞ。
全長40センチくらいはあるだろうと思われる蟹が、妻の枕のあたりでうごめいていた。
僕は驚いて体を起して、メガネをかけ、じーっと蟹を見つめた。蟹は泡を吹き始めた。どうやら本物の蟹のようだ。
「ど、どうして・・・・」
口の中でもごもごとつぶやいてみたが、らちが明かない。
家の中から、妻が消え、蟹がいる。
これはやはり、妻が蟹になったとしか思えない。
「ゆ、祐子。お前、祐子なのか」
蟹は泡を吹き続けている。これはたぶん、僕に自分が祐子であることを知らせようとしているのだろう。
「ま、待ってろよ、今、水を用意するからな」
僕は慌てて起き上がり、風呂場へ行き、たらいに水を張り、蟹を入れた。
蟹は喜んでいるように見えた。
「祐子・・・。どうして蟹なんかに・・・」
僕は混乱する頭を必死になだめながら、会社へ行くしたくをはじめた。
いつもなら、スーツとワイシャツとネクタイは、祐子が用意してくれている。今朝はそれが無いので、僕は戸惑いながら着替えを済ませた。
きっと、蟹になってしまったから、僕のスーツの用意もできなかったんだ。かわいそうな祐子。
僕は風呂場へ顔を出し、
「それじゃ会社に行って来るよ、祐子」
と声をかけ、家を出た。

会社へ着いて、仕事をしているうちに昼飯の時間になった。仕事に集中しているときはなんとか普通でいられたのだが、昼飯の時間になってしまうと、集中が途切れ、どうしても蟹になってしまった祐子のことが気になる。
「聡史さん、どっか昼飯でも行きましょうよ」
後輩の後藤が声をかけてきたので、僕は軽くうなずいて立ち上がった。
会社の近くのコーヒーショップでパスタを頼んだ。後藤はもっと腹持ちのいいものを食べたかったらしいが、僕が気乗りしなかったのと、会社の人間がたくさんいる定食屋へ行く気になれず、人の少ない店を選んだのだ。
「聡史さん、どっか具合でも悪いんですか」
食後のコーヒーを頼むと、後藤がタバコに火をつけながら話かけてきた。
「いや、ちょっと・・・・」
まさか、朝起きたら妻が蟹になっていたとは言えない。
「ちょっと変ですよ、聡史さん。元気ないし」
後藤は気のいいやつだ。こいつにだったら話しても・・・。でもなあ。
「いや、まぁ、大したことないんだが・・・。そういえば、蟹って、どうやって飼えばいいか知ってるか?」
「蟹?蟹って、生きた蟹ですか?そんなの、届いたらすぐにゆでるかなんかするんじゃないですか。実家じゃそうでしたけど」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「あ、小さな蟹ですか?川にいるような。釣りのえさみたいな?」
「えさ?いや、そうじゃなくて・・・・」
「蟹って、どんな蟹ですか」
「そうだなあ、結構大きいんだ。40センチくらいはあるかなあ」
「いいっすねえ。タラバガニとか、毛蟹とか。ずわい蟹とか。そういうのでしょ」
「ああ、そうだな、見たところはそういう感じだな」
「そっか、食べる暇がないんですね。そしたら、ゆでたあと冷凍しておけばいいんですよ、実家じゃそうしてました」
「いや、だからそうじゃなくて・・・・」
話が噛み合わない。
「そうじゃなくて、飼い方が知りたいんだ。飼育法だよ」
「飼う?飼うんですか?蟹を?」
「そうなんだ」
「そういえば、『蟹工船』っていう小説がありましたね、あれは蟹の話でしたよね」
「蟹の飼い方が載ってるのか」
「どうですかね、読んだことないから」
「適当なことばかり言うなよ。真剣なんだぞ」
「うーん。あ、すし屋の生け簀にたまにいますね。水槽で飼えるんじゃないですか?塩水入れて」
「なるほど、そうか!」
僕は会社帰りに、水槽を買って帰ることに決めた。

「ただいま、祐子」
僕は会社帰りに熱帯魚屋へ行き、大きな水槽と、海水の素とかいう粉薬を買ってきた。なんでもこれをいれると、普通の水が海水になるんだそうだ。
熱帯魚屋の店員は、不思議そうな顔をして、それを薦めてくれ、ついでに、
「あのー、たらばとかずわいとかは、北の海にいる蟹なんで、とにかく水を冷たくしたほうがいいですよ」
と言ってくれた。
「祐子!ほら、水槽だぞ。これから、塩水を作ってやるからな」
風呂場のたらいの中から、蟹の祐子がゆっくりと足を動かしながら僕を見つめている。
僕は風呂場の脱衣所に水槽を置き、ホースで水を入れ、海水を作り、冷凍庫から氷をたくさん持ってきて、水の中に入れた。
そこへ蟹の祐子を入れる。祐子は持ち上げられたとき、泡を吹いていたが、水の中に入れられるとそれも見えなくなった。
「これでよし、と」
僕は満足して、リビングに戻って、テレビをつけた。

次の日の朝、僕はコーヒーを飲んでパンを食べながら、ふと、祐子の食べるものはなんなのだろう、と考えた。そういえば昨日から何も食べさせていない。
これはまずいぞ。
ばたばたと家を出て駅までの道をスーツ姿で走りながら、僕はずっと蟹のえさについて考えていた。

「マジで飼ってるんですか?聡史さんって変わったことするなあ」
あきれたような顔で後藤に言われたが、他に相談できるような人間がいなかったのだから仕方が無い。
「いろいろと事情があるんだよ」
「タラバガニを飼う事情って、どういう事情ですか?それを知りたいっすよ」
「そのうち話すよ・・・。で、蟹って何を食べるんだろうな、知ってるか?」
「蟹って・・・。あ、そういえば、ザリガニを飼ったことあるんですけど、そのときは煮干とかソーセージとかやってたなあ」
「ザリガニって蟹なのか?」
「よくわかんないですけど、ま、似たようなもんじゃないですか?」
「でも、蟹は海にいるんだから、たぶん魚とか食べるんだよな。煮干か、よし」

帰り道、自宅近くのスーパーで、煮干を一袋買うと、僕は家に帰った。
すぐに脱衣所に置いてある水槽に向かう。
蟹の祐子はおとなしくそこにいた。
「祐子、えさだぞ。煮干だぞ。食べるだろ」
僕は水槽の中に煮干を入れると、少しほっとしてリビングのソファに腰を下ろし、冷蔵庫からビールを取り出し飲み始めた。

次の日の朝、後藤と顔を合わせると、後藤が手を合わせて近寄ってきた。
「おはようございます聡史さん。実は今日ちょっと、付き合って欲しいんですけど・・・。合コンの人数足りなくなっちゃって。独身ってことで、来てくれませんか」
僕は見た目がまぁまぁなのと、無難な人柄を買われているのか、昔から合コンに良く誘われる。別に遊びが好きなわけでもないけど、女には苦労したことがない。
「ああ、でも・・・・」
「何かあるんですか、今日」
頭の中に、蟹の祐子のことがちらついたが、えさを与えてきたんだから大丈夫だろう。
「まぁ、いいよ。付き合うよ」
「すみません」
後藤が笑いながら離れていった。

その日の晩の合コンは、われながらとんとん拍子に進んで、気がついたら僕は渋谷のラブホテルで22歳の大学生にバックから突っ込んでいた。僕は今年で33歳だし、別に絶倫なほうでもないから、強く誘った覚えは無いのだけど、女の子がずいぶん積極的だったので乗せてもらった。別にどっちでも良かったんだけど。まぁでも据え膳を断るのって逆に失礼だからね。

女の子を送って、タクシーで家に帰りつくと、もう4時半だった。これから寝て、明日また仕事かぁ、と思うとうんざりしたが、玄関に入ったとたん、睡魔に襲われて倒れこんだ。

「全く、聡史さんっておいしいとこ攫っていくんですから。結婚してるんだから、少しは遠慮してくださいよ」
「いやぁ。そういうつもりじゃなかったんだけど。あっちが積極的でさ」
「あの子が一番かわいかったですよ。俺も狙ってたのになあ」
「お前もひとりくらいつれて帰ったんだろ」
「ええ、まぁ。でも朝顔見たらすげえブスで。うちに連れ込んだの間違ってたかな。まだいたらどうしよう」
「なんだ、置いてきたのか」
「朝起きて時間無くて。あっちはまだ寝てるし。適当に帰ってくれていいからって言ってきたんですけど」
「あーそれまだいるかもな」
「やめてくださいよ、いないこと祈ってるんですから」
サラリーマンのランチタイムが終わりかけていた。後藤が思いついたように話題を変えた。
「そういえば、蟹、どうしました?」
「あ、えさやってるよ」
「飼えるもんなんですね、蟹って。すぐにゆでなきゃだめなんだと思ってましたよ。でも、ほんと、なんで飼ってるんですか?」
「いや、うーん。事情があってさ」
「事情ってなんですか?そういえばこのあいだも言ってましたけど」
話していいものなのだろうか。僕は少し迷ったけれど、話し始めた。
「実は、僕の妻が、変身したらしいんだ」
「はぁ?どういうことですか」
「朝起きたら、隣に蟹がいたんだよ。妻が寝ているはずの場所に」
「蟹がですか?」
「ああ、蟹が」
「蟹って、たらばとか、ずわいとか、そういう・・・」
「たぶんな」
「あのー、よくわかりませんけど」
後藤は大きく息を吐きながら言った。
「僕は思うんですけど、それって、奥さんが蟹を置いて出て行っただけじゃないんですか?」
僕は黙った。
「だって、いくらなんでも奥さんが蟹になるわけないじゃないですか」
「でも、じゃあなぜ蟹がいるんだ」
「だから、それはよくわかりませんけど。あ、でもそういえばそういう小説がありましたね、朝起きたら虫になってたっていう。確か、『幼虫』とかいう」
「それ、たぶん『幼虫』じゃないだろ」
「違いましたっけ。朝起きたら、たしかカブトムシの幼虫になってるんですよ。悲惨な話だと思ったなあ」
「読んだことあるのかよ」
「ないですけど。だって怖いじゃないですか、そんな話。怪談でしょ。俺、オカルトだめなんですよ」

僕がその日、残業を終えてくたくたになって家に帰ると、水槽の中で蟹が死んでいた。
水が腐り始めていて、嫌な匂いがしていた。
与えたはずの煮干は、ほとんど食べた様子はなく、ただ水の腐敗を早めただけのようだった。
これは祐子なのだろうか。
それとも、祐子が置いていった蟹なのだろうか。
もしも祐子が蟹を置いていったのならば、なぜ祐子は蟹を置いていったのだろうか。
僕は重たい体を寝室へ運び、布団へと転げ落ちた。



散文(批評随筆小説等) 蟹妻 Copyright チアーヌ 2005-02-16 15:21:22
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