幽霊たち
岡部淳太郎

第一の幽霊

私は待っています。
この地表に縛られて、待つこと以外に何も出来ないのです。誰を、何を、待っているのか、と問われても、私にはまるでわからず、それでも、
私は待っているのです。
かつて私は女、だったのでしょうが、いまは何者でもないのでしょう、きっと。
多分、とか、
恐らく、などの、
推定の中でしか私は存在しないのですが、それがきっと、私の悲しみでもあるのでしょうが、私はもう忘れました。私が女であったのかどうか、いまの私がどんな存在なのか、それらの、すべてを。私は恐らく、いまでは何者でもないのでしょうが、それさえも確かなことではありえず、
夜に、
幽霊がすべるのが、
ただひとつの確かで、明らかなことなのですが、それさえも、時にあやふやになりながら、なおも、
私は待っているのです。
私の脚は途中から、すううっと、すううっと、消えていって、それとともに、私のぜんぶがそこの緑の茂みの中に溶けて、必然的かつ完璧な保護色。そこで思う存分、気の済むままに、
私は待つことが出来るのです。
ほら、向こうから誰か知らない、男のひとがやってきました。彼は多分、私の待っている誰かではないのでしょうが、とりあえず、彼にとり憑いてみようと思います。


第二の幽霊

げ、げ、げろ、ろろろろろ、わた、わた、しは吐きま、した。吐いて、吐い、いて、わた、しは、誰、誰なのだろう。げげ、ろろろろ、吐い、いた後は、みみ、み、みみず、水が欲しい。わた、わた、しは誰。死は誰。飲み、飲み、たいから、み、水が、ほほほ、欲しい。なかは暗闇。なかは、と、と、とおい、とおいい、くら、くら、あ、あたま、くらくら、くら、闇。そ、そとも、そそそ、そ、そうっと、そとも、くら、闇、だったら、どうしよう。なかは暗かった、からから、そそとは、光、ひ、かりが良い。げ、げ、ろろ、げろ、わた、しは誰、なのだろう。わたたた、たし、たし、しししし、は誰、れ、れれれれ、れのれ、わた、わた、わわわ、おどろく。おどろいて、たしは誰。じぶんんんを、をを、いい、いい、いい表す言葉、言葉、こと、ばか、ばが、わからな、い。わわわ、わた、ししし、しは、くらくら、暗かった。なかは暗かった。明るいはずの、そそとに出る前に、ふた、ふた、旅、たび、暗いなかへ、ほおおり、おり、出された、たたたたた。わわた、しは、えいえん、えんえん、に、闇に溶けこむ、かかかか、影でしかないのか。だ、誰か、おし、おし、唖、えてほしい。わた、わた、しししは、死は生まれたかったのに、ううう、生まれては、こなかったのに、ちち、血、害ない。のの、のどが渇いて、みみ、みみず、み、み、水が欲しい。あの、わたわた、しを包んで、死を包んでいた、あの水、あの池が、こい、こい、来い、恋しい。なつ、夏、な、つかしい。わた、しは、ひひひひ、ひとになりた、かか、かかった。そそ、そ、れなのに、わたわた、わた、しは龍、龍、りゆう、何の理由でか、でかかかか、母さん、わた、綿、しは龍。みみ、ずのなかから、かき、かき、出された、わたわたわた、たし、たし、ししししは、死は龍。死の影。わた、たしは誰、のののの、かか、影。かかか、か、影、かか、母さんの影。わわ、たしは誰。わたたたたた、しは、しは、死は誰のものなのだろう。ろう、ろう、聾、ろろろろ、げろ。げろ。げろろろろ。ろろ、ろろ、げろろ、げろ、げろ、げろ。


第三の幽霊

俺には首がない。俺がいつ、どのようにして首を失くしたのか、俺は知らない。俺はただ歩く。首を探して、この森の中をさまよいつづける。時が夜なのか、それとも昼なのか、それはこの鬱蒼とした森の中では、どこまでも不確かだ。首のない俺は、それでも物を見、音を聴き、すべての怒りの味を感じることが出来る。あの男は怒りに動かされていた。それは男自身にとってもあずかり知らぬ、起源の定かでない怒りではあったが、ともかく男は怒りにまかせて、俺に向かって刀を振り上げていた。その光景が、脳髄の中で停止したまま、いつまでも残っている。あの男の怒りは何だったのか。かくいう俺も、男のと同じ種類の怒りを、この身の内に感じていたはずだった。だが、その熱のような感情も、いまの俺からは遥かに遠い。いまの俺をつき動かし、この森の中をさまよわせているのは、どんな種類の感情でもない。あえてそれを定義するとすれば、一種の執念だと云えるだろうか。そう、俺には首がなく、俺は失くした首に、子供のように執着しているに過ぎないのだ。

いったいどれぐらいの日々を、この森の中の彷徨に費したのか、俺にはわからない。確かに俺は、あの頃人々が表していた怒りの味を憶えているが、あれほど鬼の形相で突き進んでいた人々は、いったいどこへ行ったのだろうか。ある者は馬に乗り、ある者は自らの脚で走り、それぞれに異る甲冑を身につけ、手に手に刀や弓矢を持って、平原や山中で砂塵を上げつづけていた人々。互いに敵対するそれらの人々。俺もその中のひとりだったはずの、彼等はどこに行ってしまったのか。もはや怒りという感情は、全宇宙から駆逐されてしまったのだろうか。そうした変化に、俺はいつの間にか遅れてしまったのではないだろうか。そう考えることは恐ろしい。だが、それも結局俺にとっては大した問題ではない。何しろ俺には首がなく、星辰のように、何千回何万回とこの森の中を巡り歩いてきた新しい歴史を、俺は持っているからだ。

いまは夜なのだろうか。低い月が、木々の向こうの漆黒の空に浮かび上がっている。何と素敵に陰惨な満月だろう。首の切り口の生々しい断面から、息と血が同時にもれるのを感じる。いまもこうして俺をさまよわせつづける執念がどこから来たのか、まるで知ることなく、俺は歩きつづけている。あの曲は何だろうか。あれは馬のいななきか、鬨の声か。俺は怒りに自らを燃やし、刀を持って人々を斬り捨て、戦闘の中で血をたぎらせてきた。あの、懐しい怒り。人々の怒り。俺の怒り。俺は、人生に退屈していたくない人間だった。あの曲。あの満月。俺の血。ふたつの丸いかがり火をいただいた、見たこともない高速の馬がやってきた。馬からひとつふたつの影が降りて、森のはずれの道端に立つのが見える。怒り。俺は怒りを思い出す。怒りは死んではいなかった。いまだに地上は、多くの怒りで満たされているのだ。俺はその、森のはずれに佇む、ぼんやりとした人影に向かって、歩き出す。腰から刀を抜いて、手の中に握りしめる。甲冑が重い。さまようのではなく、歩く。怒りが、ふつふつと、首の切断面からあふれ出す。俺は、俺の首を探している。




連作「夜、幽霊がすべっていった……」


自由詩 幽霊たち Copyright 岡部淳太郎 2005-02-13 11:41:40
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夜、幽霊がすべっていった……