左右非対称
こうだたけみ
諸手を振って、天仰げ。頭の上つねに青く、遮るものなど何もない。ひたすらに振れ。何のためかもすでに解らなく、けれど無心に振りつづける。涙を流す姉さんが、「万歳、万歳」と言って、何処も彼処も感染症の菌の繁殖するさまを電子顕微鏡で見るように、一つ所から「万歳、万歳」と広がる。
うねる集団の声は怒っているあたしを見事に無視して、怒りに任せて乱暴に振り回したあたしの右手が手首ごと、飛んだのだ。ゴトッと落ちた右手を左手で拾うと、昔からあたしとは別の生き物であったかのように、それだけで生きていこうとジタバタやる。あたしの血と肉でつくられた部分でしかないくせに。一層苛立ちを覚えたが、あたしの怒りなど誰も解ってはくれない。姉さんが、「おなかがすいたのならいえにはいっててもいいのよ、とだなにきょうのぶんのおいもがはいっているんだから」と言ってあたしを追いやるのだ。
手が、小母さんやお姉さんやお婆さんの手が、触手のようにひらひらしている。真っ黒な掌。あたしは知っているのだ。あの黒いのは、あの子が蹲っているのだ。そんなに振られて落ちないように必死だろうに、あの子は、同じ顔と声とを持って、無数の掌にしがみつく。
ここにいるのは女の人ばかりだった。それはたぶん、安心するからだろう。同じ種のものはとかく馴れ合いやすい。似たようなものが集まって一個の集団を形成する。あたしは、その馴れ合いが厭だ。それはそれは、吐き気がするほどに。けれどもあたしはその中にいた。その中にいて、あたしは何だろうか。
あたしを形容する言葉は、何を置いてもまず子供だった。十四のあたしは、成人という大きな壁の前でまだ子供だった。女である前に子供。ここにいるすべての人があたしをそう見ている以上に、あたしは自分自身を子供と思い、手放しで甘やかされ、手放しで甘やかしていた。そんなことは知っている、誰もが知っている。
ジタバタする右手を持て余しながら、結局あたしは姉さんに言われたとおりに家へ戻った。二階の部屋の窓から集団を眺め下ろす。ちょうど窓の真下に、集団の掌が見えた。この部屋はあたしの一人部屋だ。そんなに広くはないが壁の二面に窓があって、よく日の当たるいい部屋だと思う。去年まで姉さんと二人で使っていた部屋よりは、何倍も居心地がいい。
成人すると一人部屋を与えるのが、この辺りのしきたりだ。けれども二人姉妹だから、必然的に、子供のあたしにまで一人部屋が与えられた。姉さんは何も言わないが、内心は不服であったに違いない。子供のくせにという思いもあっただろうが、長女であるというだけで姉さんを縛る枷は無数に存在し、平気な顔でそのお零れに与るあたしに、姉さんが不満を抱かないはずがない。
姉さんは、明日の二十一の誕生日に結婚する。これも長女に対する取り決めの一つだ。結婚と同時に姉さんは集団を離れ、夫の元へ行かなければならない。今日の騒ぎは、女しかいないこの集団から一人の女を送り出すことを祝う祭であり、姉さんにとっては未来の夫との初顔合わせだ。眼下の集団は熱を持ち、何がそんなに嬉しいのか、驚くほど自分勝手に膨れ上がっている。万歳、万歳。
姉さんは泣いているが、あれはどういう類の涙なのか。自分の背負っているものに押し潰されまいとする、途方もない重圧に耐える涙だろうか。それとも自身の運命が、自分でなく他人に決められることへの悔し涙だろうか。どちらにしろ、喜ぶべき涙ではない。気が弱く、不満をぶつける相手が妹のあたししかいないような女を中心にして、集団は浴槽の栓を抜いたときのように、左巻きに渦を巻いた。
男は自動車でやってきた。そして自動車で去っていった。三十分ほど留まったはずだが、その間、男は一度も外へは出なかった。あたふたする姉さんは、上から見ていると操り人形みたいで、カチャカチャ乾いた音をたてて踊らされているみたいだった。自動車が走り去り、姉さんはあからさまに落胆した。きっと誰かが糸を切ったのだ。潰れる、潰れる、とあたしの口の中で舌が跳ねた。
背後で、あたしの右手が踊り上がる。天井から吊るした蛍光灯が割れ、破片は右手に突き刺さる。けれどあたしは痛みを感じない。ひょっとすると右手は、本当に最初からあたしとは別の生き物だったのかもしれない。あたしは、何処から何処までがあたしであるのか、いまいちわからなくなった。動かなくなった右手を置き去りにして部屋を出る。階段の三段目に足をかけたとき、外の騒々しさがふつりと消えた。
台所へ行くと、集団の中心から解放された姉さんが戸棚の前に突っ立ったまま、あたしが食べ忘れた芋を食べていた。もそもそと口を動かして、いつまでも飲み下そうとしない。あたしは黙ったまま、冷蔵庫から薬缶ごと冷えた麦茶を出してきてコップに注ぐ。姉さんの左手から芋を取り上げて戸棚に戻し、その真っ黒な掌にコップを押しつけた。姉さんは口の中で何か言った。それは「ありがとう」とも「いらないわ」とも聞こえたのだが、「もうだめね」という意味なのだと直感的に思った。
あたしは、姉さんを憐れむと同時に、姉さんに恥をかかせた男を恨んでいた。姉さんに抗議する勇気がないのなら、あたしが代わりに殴り込んだっていい。明日、もしも男が姉さんを迎えに来なかったら、たとえ一人でも乗り込んでいって男の非道を喚き散らし、男の顔に泥を塗りたくってやる。姉さんが望むなら、一族郎党を末代まで呪ってやってもいい。きっとあたしは今、目尻を強く引っ張り上げたようなきつい顔をしているだろう。その顔は、男に対する怒りと同時に、姉さんに対するあらゆる善意をも表していると強く思う。
ガタン、と音がしたのはあたしの部屋か。さっき姉さんから取り上げた芋を咄嗟に掴み、一気に階段を駆け上がる。日が傾いて、部屋が真っ赤に染まっていた。机の抽斗がひっくり返って中身がぶちまけられている。そしてあたしの右手が机の上で、開いたノートに忙しげに何度も同じ文字を書いている。うそをつけ。
ノートを引っ手繰ると、右手はあたしに向かって鉛筆を投げつけた。そして、机の上からあたしを指差した。あたしは怒っていた。けれどあたしの怒りなど、誰も解ってはくれない。あたしは右手に芋を投げつけ、地団駄を踏み、ノートをズタズタに引き裂いた。振り返ると、部屋の入り口に姉さんが立っている。今にも消え入りそうな姿で、蝶番のあるほうの壁に凭れていた。あたしはなぜか真っ赤になって俯いたが、視界の端で姉さんを盗み見ることは忘れない。夕日に照らされてすべてが赤い。姉さんは、今度は聞こえる声で言った。「うそをつけ」。
あたしが顔を上げると同時に、ふいと姉さんは背を向けた。トントンと音をさせて、階段を降りていく。そういえば、上がってくる音はしなかったな。あたしはノートの切れ端を拾い集めて、屑篭にぐいぐいと押し込んだ。
蛍光灯のない部屋は、夜に逸早く捉まる。昼間の明かりの名残が目の中で赤い斑点になって、暗いはずなのに仄かに明るいと感じる。閉じたドアの隙間から漏れ出る光が、部屋中に暗闇が満ちるのを邪魔した。それは、完全なるものの否定であるような気がする。どうにも屑篭の前から立ち上がる気になれない。姉さんはさっきから「ごはんよ、はやくおりてらっしゃいな」と繰り返していたが、わざわざ二階まで呼びには来なかった。来るはずがなかった。
しばらくして闇に目が慣れると、物の形が見えてきた。電気の傘の下で何かが動いている。あたしの右手だった。右手は廊下の明かりが当たるところまで行くと、あたしにその掌を開いて見せた。真っ黒だ。
あの子がいる。振り回されてもしがみついて、あたしの手にもあの子はいるのだ。同じ顔と声とで、じっと蹲っているのだ。あたしは、もう怒っていないことに気づく。「さきにたべちゃうわよ、しらないわよ」と言う姉さんの声が、とても遠くに聞こえた。すると、あたしの左手までも外れて床の上を転がった。そして右手にぶつかって、少し戻って止まる。左手は、右手と違ってまったく動こうとしない。あの子と一緒に、とても静かにあたしの残骸のように見えた。
朝になってあたしの左手は、真っ白な花が詰まった乳母車の中に入れられた。姉さんがそれを左手で押して、いつの間にか寄り集った集団の前に出ていく。手が一斉に振られて、姉さんはにっこりと笑う。乳母車は集団に渡されて、その中心でぐるぐると回されながら、とうとう行ってしまった。
集団を見送った姉さんは、トントンと音をたてて二階へ上がってきた。それを聞きつけて、あたしは慌ててドアノブを掴もうとする。けれども両手がない。そのままドアが開かれるとあっさり右手になって、あたしは、笑っている姉さんの右腕の先端に、姉さんの右手としておとなしく収まってしまう。
諸手を振る。「ばんざい、ばんざい」と集団がうねる。手が、触手さながらにひらひらする中を、自動車は姉さんを乗せて走る。運転席の男は「ずいぶんせいだいなおみおくりだな」と呆れたように言って、傍らの姉さんは「これが当たり前なのよ」とすまなそうに笑ってみせた。いつの間にか女らしい丸みを帯びた身体を、姉さんは居心地悪そうに窓際へずらした。気のせいか、左半身のほうがどの部分も右半身より大きく見える。けれども男からは、小さくまとまった右半身しか見えない。
姉さんは気休めに、バランスの悪い身体を両手で押さえつけた。本当は歩きたかったが、むしろ皆と手を振る側に居たかったがさすがにそうは言い出さなかった。その代わり、窓の外を眺めるふりをして、はっきり不満げに顔を歪める。周期的苦痛に耐えて生きるより全部終わらせるほうが楽なのに、とその顔には書いてあった。後方では集団が相変わらずの渦を巻いて、左巻きに「ばんざい、ばんざい」と繰り返していた。だんだんと遠退いては、視界の一点に、蟠る。
あたしは一つ気がついた。あたしは子供だったが、そこには最初から、集団という要素が含まれていた。女である前に子供であるならば、あたしは最初から集団だったのだ。なんだかとても安心する。それは、あたしも同類だということを意味していた。じつは少しも怒る必要などなかったのだ。ひどく損をした気分で、小さく、小さく蹲る。