現代詩フォーラム ランダム道中千人斬り 其の参拾六〜其の四拾壱
熊髭b


俺はここちよいことが好きである。
「好き=ここちよい」といってもいいのかもしれない。
鄙びた温泉の湯にゆったりと何度も浸かることが好きだし、
夕暮れ時の森のなかを、モコと雄太を連れ歩くことも好きだ。
薪ストーブをたくのも好きだし、薪割りも好きだ。
雨の日に布団の中でだらだら本を読んで過ごすことも好きだし、
酒を飲んで、大音量でブルースを聴くことも好きだ。
ハーブをたしなみながら、仲間と打楽器を鳴らすことも好きだし
春の新緑が一斉に芽吹く時期が何よりも好きだ。
そういったここちよい状態に身を置くことは幸せなことだし
なるべく、ここちよく生きていこうと思っている。


また俺は、好きとはちょっと違う感覚があることも感じている。
好きというのは、どちらかというと、明確な感覚だ。
恋をすれば、その相手を好きなことは何よりも明確なことだし、
好きな音楽や文学、キャラクターやアニメは
特に無理しなくても興味を湧かせてくれる。
しかしその一方では、そういうものを選択している自分というものは
実は未知のものが渦巻く選択肢から
自分の限られた経験則の範囲の中で決定しているのだ
という意識を持つことは、大切なことだとも思う。


好き、という明確な意識に対して、
ちょっと違う感覚がある、とさっき書いたわけだけれども
それは何かといえば、
「何だかよくわからないけれども、自分の知らないことがありそうだ」
という感覚のことである。
自分がその輪郭を捉えることが出来なくて、
その認識は、すべてにおいてグレーゾーンだったりするのだけれども
なんだか気になる存在のことだ。
なぜ惹かれるのかも明確ではないし、その実態が何だかわからないし
好きとか嫌いといった割り切っては言い表せない、あやふやなもの。
それをひとは謎と呼び、既知なるものに対して、未知なるものと呼ぶ。
(ちなみに、はじめて出会ったものでもすぐに、好き!と思ったら、それは既知と呼ぶのだ)


たとえば俺には7年付き合っている連れがいるわけだが
なぜ7年も飽きずに付き合っているかといえば
それはやはり彼女が謎だからである。
はじめはもちろん俺も、自分の知りうる理解の範囲で、好き!と思っ(てしまっ)たわけだが、
すっとこどっこい、時間をかければかけるほど、謎が深まるばかり。
俺の理解の基準とはまた違う基準で生きている相手といることは
俺にとっての未知との遭遇といってもいいかもしれない。
よく共通の趣味、共通の話題、共通の目標、とか言うけど
俺は、ありゃどうも頂けないなあ、と思ったりする。
まあ、確かに同じことをやることで結束力は高まると思うけど、
お前ら、何でも同じじゃないと結束力も持てないのかって思っちゃう。


そういう謎な相手と付き合っていると、
ああ、俺の思っている感覚なんて囚われたものなんだなあ
と思うことがよくある。
まあ、そうすんなりとは受け入れられたりしないんだけどね。
好きを受け入れるのは簡単だけど、
よくわからないものを受け入れるのは、結構労力がいるのだ。
ただ、間違えてもらっては困るが、謎と理解不能は全く違う。
謎とは嗅覚的な感覚で捉えられるもので
理解不能とは、論理的感覚でとらえられるものだからだ。


「何だかよくわからないけれども、そこには自分の知らないことがありそうだ」
という感覚がここちよいことかといえば、
ここちよいこととは断定できない。
明らかにそこには、好き、と明確に言えてしまうものとは別の何かが働いているのだ。
簡単な言葉ではとらえられないから、
時には否定してしまったり、自分が押しつぶされてしまったりもする。
でも、そんな逡巡を繰り返しながら、
依然よくわからないことだらけのまま、惹きつけられつづけるものと出会う
ということは大切なことだと思うのだ。


そして、俺が一番言いたいことはバランスの問題だ。
最近のものの語られ方は、好き!嫌い!ということに特化しすぎだから、
俺はみんながあまり触れることのなくなった「謎」について長く語る。
それで、きちんとバランスをとれよ、って言っちゃうんだもんね。
みんなもっと、よくわからないものについて書いちゃえばいいじゃないか!
でも、そういうよくわからないものを書くと決まって否定的な語り口になるから
なんだかうんざりしちゃうんだけどさ。
現代詩フォーラムのどこかにもいないかな。
両方のバランスを持って、矛盾よく書いているようなひとに
この旅の中で出会えるといいなと思うわけだ。


自分自身の「ここ」を認めてくれるのが好きという感覚だとすれば、
自分自身に「こことは違う場所」があることを匂わせ、「ここ」を活かしてくれるのが
謎という感覚だ。
そのバランスを程よく持つことが、人生を楽しんでいくコツですよ。
俺は天邪鬼だから、好き好き世の中になれば、謎を主張しちゃうし
謎謎世の中になれば、好きを主張しちゃうんだけどね!


じゃあ、今日もぼちぼちいこか。



□其の参拾六

『モンキチョウ(百蟲譜16)』 佐々宝砂  ☆☆☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=5914

いやいや、毎度前説が長くてかたじけない。前説で結構労力を費やしてしまってるよ。でも、この乱取り稽古みたいな読みのなかからフィードバックされて言葉が書かされているようなところもあるんだな。さてさて、よよ、また佐々さんだ。うーむ、この人の作品数は多いから、出会いも多い。さて、どんな作品かな。みつべえおじさんの連作にも貝シリーズとかあるけど、この百蟲譜シリーズ(なのかな)は、なんだかデコデコしてる印象を受ける。こういうシリーズは、いかに自分の思い入れを消化していくか、ということがカギなのかもなあ。あまりイマジネーションをつつかれることなく読了。でもシリーズなので、そのなかで読むと印象が変わる可能性あり。



□其の参拾七

『#2 新 行列のできるラーメン店 REPORT-F』 オリコ  ☆☆☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=25852

オリコさんはじめまして。さて、ヨムヨム、ウムウム。この詩の方向性がいまいちよくわからん。そのとおりに読むと、麺だけ食わされたところに、なにかしらの感情が働いているのだろうけど、これをどうとらえたらいいのか、俺はおいてけぼり状態だ。助けて、フラワーマン!でもこれも連作だから、何かあるのかも。



□其の参拾八

『十月』 本木はじめ  ☆☆☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=21474

お、この人の名前は見かけたことがあるぞ。本木さん、はじめまして。詩を読むのも初めてです。さてさてヨムヨム。一見して、一文に込められた象徴的形容表現が多い。これが想像力を削いでしまっている。「靴下の男」と「赤い靴下を履いてハト男」だと後者のほうが象徴的形容表現が多いが、これを効果的に活かす展開が必要不可欠だ。この象徴的形容表現がずっと続くと、逆に読み手は想像力を削がれてしまうのだ。



□其の参拾九

『僕に』 馬野幹  ☆☆☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=8563

幹さんはじめまして。いくつかの作品を読ませてもらっています。前によく点子ちゃんからお名前を聞いていて、フォーラムで作品と出会ったわけです。さてさて、これは未見の作品だぞ。どんな詩なのかな。うーむ、ある意味、逆教訓的な詩だなあと思う。でも構図は単純。しかし最後が神様だもんなあ。こりゃあどうにも頂けません。



□其の四拾

『きみときみときみへ』 水曜会  ★★★☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13248

水曜会さんはじめまして。個人名に会を名乗るそのセンス素敵です。さてさて、純度の高い詩だと思う。それは詩の完成度のことではなくて、魂のこととして。既成の概念が崩れ去ったところから始まる、根源的な肉体と沈黙と共有を朗らかに歌う純度の高さ。でも恐らく、今の俺が必要としているのは、そこから始まった肉体と沈黙と共有の歌だ。そこにどうまみれているのかの気配を感じてみたい。



□其の四拾壱

『じっちゃんぼっちゃん』 ツインターボJr  ★★★★☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9124 

ツインターボJrさんはじめまして。Jrを名乗るということは、お父さんがツインターボさんですね。いやしかし、これはすべてをとらえきれないが惹かれる作品だ。こういう出会いがあるから、千人斬りは続くんだな。日常的な景色の伏流が見事。日常のやさしい風景を読みながら、読者は時間という永遠の謎にアクセスさせられ立ち止まる。詩によって出会った、その立ち止まりがひらいてみせる世界は、いつまでも読者をとらえてしまう。広く読まれてほしい作品。えいっ、千人斬り初の★4つだ。持ってけ泥棒!秀作。






今日は、余韻に浸れそうなので、ここまで。
千人斬り、初の返り討ちでござる。
また日を改めて馳せ参ずこととする。

片野氏、リンク方法のアドバイス、かたじけない。
快適な旅が続けられ候。


散文(批評随筆小説等) 現代詩フォーラム ランダム道中千人斬り 其の参拾六〜其の四拾壱 Copyright 熊髭b 2005-02-11 16:22:58
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