辻斬り批評モードー辻征夫の「むずかしくない詩の話」を読んでみた戦慄
石川和広

最近、詩の森文庫というのが出ていて
辻征夫さんという人が書いている。この人、亡くなったのが60だから、僕の親父が60だから、今、死んだらと想像するだに、コワイ。
それは、さておき、1939年生まれだから、早くにいい人を亡くしたもんだと思う。
「かぜのひきかた」という、さみしいときにかぜですか?といわれると、カゼみたいな気分になってきて、ホンマにカゼ引いて休めるという、とてもリアルで、深くて、面白い詩を書いていた。
全文を引用する


 こころぼそい ときは
 こころが とおく
 うすくたなびいていて
 びふうにも
 みだれて
 きえてしまいそうになっている
 こころぼそい ひとはだから
 まどをしめて あたたかく
 していて
 これはかぜを
 ひいているひととおなじだから
 ひとは かるく
 かぜかい?
 とたずねる

 それはかぜではないのだが
 とにかくかぜではないのだが
 こころぼそい ときの
 こころぼそい ひとは
 ひとにあらがう
 げんきもなく
 かぜです
 と
 つぶやいてしまう

 すると ごらん
 さびしさと
 かなしさがいっしゅんに
 さようして
 こころぼそい
 ひとのにくたいは
 すでにたかいねつをはっしている
 りっぱに きちんと
 かぜをひいたのである



この詩から、引き出せるところは、自己のふかい癒すことの出来ないさびしさ、かなしみ


 こころぼそい ときは
 こころが とおく
 うすくたなびいていて
 びふうにも
 みだれて
 きえてしまいそうになっている


しかも、それは、生きることのはかなさが、ひとの「ひとは かるく/かぜかい?/とたずねる」という声により、たよりなく「かぜ」というやまいへと救い出され、名づけられ、世の中のことばへと変化していく。それは、カラダによって濾過されているようだ。
辻は、発語の瞬間が意味を持つまでのか細さを「かぜ」という、これまた、人の口から口へつたえられるものとしても、その、いのちの弱さのまま、捉えている。
これが、遠い残響のように、彼の詩の読み方にもつながっているのではないだろうか?

「騎兵隊とインディアン」という短編は、タイトルとは、関係あるのかが、ほとんど不明で、免許を取りたくないというところから始まる。読む方は酔ってしまうのだが、辻さんは、そうとう、正気に変なことに巻き込まれていく人だ。

さて彼の「私の現代詩入門―むずかしくない詩の話」もなかなかの曲者ではなく、異様に
難しくないのだが、適度に、その詩人のエッセンスを書き出すのだから、「簡単な」ではだめだが、「むずかしくない」。つまり、これは、非常に丁寧に書かれていると僕は感じる。

なんか「むきだしの悲しみー中原中也の詩」という中也論の一行目で


 中原中也は、この世の中でどういう風に人と
 付き合っていったらいいのか、わからない人だったような感じである。
 

いきなりこの書き出しは、参った。「人だったような感じ」だから、その人を、書かれたものから嗅ぎあてているのだが、中也の、どこに向けていいかわからない感じの言葉や、とんちんかんな中也の生活での言動も、当てていて、書き出しで、中也をノックアウトしている。
しかし、ここから


 「私も、全てを」、全世界を感ずる者でありたいという人間
  にとって、この世の中での身の処し方など問題にもならなかった。


と書いておいて
現実的に、医者の息子で、労働に実をすり減らしたりしないでよかったので、「資質のままに」生きることが出来よ辻は筆を進め、ついに


  こういう人はきっと、ちょうど三十歳くらいで、
  神さまに呼ばれるのだ。
  
と締める。辻さんのいう労働は、微妙に中也の人との付き合い方の「わからない」に寄り添いながら、最後に、こうして死んでいくのは摂理だというように、締める。
ここにも辻の詩と生命のかかわりへの手触りがある。
ほとんど、科学者のようにクールで、しかし、ちゃんと詩人した、最後の人だと感じさせる。「こころが とおく/うすくたなびいていて」、ぎりぎり、古典の歌の、香りと、詩が微妙な平衡を保ちつつ、いのちやこころを扱いえた詩人だといえる。中也も短歌を書いていた。

 辻は、俳句や小説をものしたり多彩な人らしかった。
谷川俊太郎も、辻のような人をなくしては、しんどかったろうなという数行があり、そして笑えて谷川についての議論をひっくり返す強さもある。

 
 てっとりばやくごく簡単にいえば、

 かっぱらっぱかっぱらった
 とってちってた
 
 谷川俊太郎はこういう詩を書く人である。

 (略)明るく、愉快で、思わず吹き出してしまうが、こういう詩を書く人間というもの  を、読者はいったい考えてみたことがあるだろうか。


鋭い実作者からの問いである。


 「うそでしかいえないほんとのことがある」ことを熟知した人間が書く、客観的な言葉 の花である詩ということである。


「客観的」と「花」をつなげて行けるというのは、詩作はともかく、批評として、書くのは難しいラインだが、しかし、ほんとうの、といわないところに、つまり、それが詩を作品として読ませる事実を、きちんと言いたいという、辻の丁寧さがある。

中原中也に「対話」になりにくい、神の言葉をみたとしたら、谷川は、にんげんと呼ぶのが憚られるよう位置からにんげんの言葉の限界の外からの言葉を引き入れているとも言える。
それは、「旅」でうたわれた自然、や人間が並列であるような、存在とのかかわりの言葉。
ここで、「にんげんだもの」といっていくと、相田みつをになるだろう。
 辻は、ここで、「綱渡りの道化師」と谷川を呼ぶ。そして、サーカス小屋の道化師は「たしかに命綱を付けている」と、述べ


 しかしあの命綱は、何だと思う?

 あれはたぶん見物の子供たちを安心させたいがための道化師の優しさ、「善男善女」と いう幻へのサービスなのである。バランスを崩して落下すれば、ぺしゃんこになって死 ぬ


 これは、「詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」(「旅」)という谷川の詩を読む「子供」=読者への、そしておそらくは、そこに、詩の限界を定めざるをえなかった谷川という詩人の言葉への、愛のある批判としか言いようがなく、それは、辻の、詩の外側の限界であるから、彼は五十二歳の谷川の素顔の写真を見て「化粧を落とした顔をさらした」という。
 そして、年がその当時の谷川に近づいてきて、写真を見たら


 べつだん衝撃は感じないで、ごく親しい隣人という感じがした。
 私の道化師ぶりも、多少は板についてきたのだろうか。


辻は、こう述懐する。もうすぐ「神さま」に呼ばれる八年ほど前のことである。   

辻は、中也の息を引き取った。全ては、真実でないとしても、「かぜのひきかた」も詩人の孤独をうたっていないだろうか。
そして、詩人とは、読者という「子供」を相手に、道化師を演じる時が終わるとき、辻も何か「いき」を「ひき」取られたのではないか?

 子供は大きくなったか?僕は大きくなったか?
呆然としていることを、そして、書くならば、書く中で、それぞれの言葉の、「いき=域」を見ていけば、谷川が疲れて化粧を落とした後、僕は僕の経験の中で、詩の息吹をたしかめていくしかあるまい。
僕がはじめて買った詩集は、谷川の「世間知ラズ」だった。あれは、僕が、大学二年のときだから、1993だろうか、その時、辻は、五十三歳。
「私の現代詩入門―むずかしくない詩の話」の井川博年の後書きによると元になった「かんたんな混沌」は、1991年。

谷川に論じた「入門」での文章の後に、谷川との対談が載っていて、「旅」は、「ことばあそびうた」と並列され、「現代詩の自己表現の呪縛」からの離脱のためのフィクションである、ある種の実験詩だったという言葉を引き出し、


  あのときはまだ甘いんです、詰め方が。
 あれはぼくはフィクションのつもりで書いたんだけれど、
 みんなは何かマジに受け取ったみたいで、ぼくは、あれ?と
  思ったんだけれど


この発言に代表される作品らのことを語る谷川に、辻は、こういう後からの読みを加えている「主調低音のように間歇的に出てくるのは、詩人自体の生き方を根本においていまは詩を書いて行きたいということのようだ」と述べている。

そして、辻は、1984年に谷川が書いた「日本語のカタログ」も、谷川にとってフィクションであったと書き添え、当時初出の現代詩手帖6月号の「世間知ラズ」他二編などを
「逃げ道をいっさい残さないで書きたいという気持ちが強い」し、「この厳しい苦さを評価したい」と書いている。

「逃げ道」とは、「マジ」に対する「あれ?」の対句的構造というか、かつての詩の限界への挑戦を、挑戦として受け取ってくれなかった「読者」と谷川が考えてきた、詩の構造自体が、まだピエロを想定したものだということだ。

この道化は、谷川しか感じていなかったのではなかったことは、辻も追いつつだったのだろうが、たぶん、辻も気づいていただろう。


「世間知ラズ」を買ってから、買ったときは、なにか、地すべりのような詩集だと感じた。
しかし、いまの僕には、あの詩集を思い出すとき、雨音のようなノイズを聴く感じがする。詩の世界と、いうのも、照れるが、谷川は、多分、辻のいう「中也」がわからなかった「世の中」というものへの、あるアプローチを「知ラズ」という形で明示した。
 辻と谷川の対談に、辻がコメントを付したものを「ぼくじゃないほんとうのぼく」と辻は題した。

谷川は、またも「挑戦」したが、今度は「世間」と相手が名指されている。

「世間」は、僕も生きてきたか謎な、もう未知な空間である。
谷川と違うのは、ぼくが相手にしている周囲は「世間」かどうかもわからない、限界の見えない、そして、しかし様々な不文律で囲まれ、それを内在しているだろう僕だ。
そこは、確かに、敵を知り己を知る谷川の空間とは、反転した己と敵が、パラレルな、ある意味、戦闘地域と非戦闘地域という言葉遊びの分割が通じない空間である。

谷川は今も新作を発表し続けている。しかし、彼は戦う人である。

僕も、戦うのだが、言葉の紛争地帯で、飯をどうやって食うか?
僕の戦いは、こうだ。そして、それは、生の酷薄さが、自分をバラバラにしながら、それを新たに、再構成させる、自分への復活の言語空間である。

 もしかしたら、谷川は、やはり、それを知ろうとしているのかもしれない。
「夜のミッキーマウス」文字通り、あんなものが夜中歩いていたら、怖い。そういう
「文字通り」の空間。




 
*参考、引用文献

現代詩文庫78 辻征夫詩集 思潮社 1982
谷川俊太郎詩集 続 思潮社 1987
辻征夫「私の現代詩入門‐むずかしくない詩の話」思潮社 2005
辻征夫「船出」童話屋 1999


散文(批評随筆小説等) 辻斬り批評モードー辻征夫の「むずかしくない詩の話」を読んでみた戦慄 Copyright 石川和広 2005-02-10 22:15:19縦
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