酩酊の夜
竹森

「あぁ、僕、僕ね。愛。愛を、信じてみよう、とか、考えてみたりするんだ。レストランの窓から漏れる灯りに照らされて、橙色の染み込んだ、木の幹を舐めてみたりする・・・・・・苦くて、甘い。見知らぬカップル、家族さん。暖かい雰囲気のおすそ分け、どうも、ありがと、う―――」

右肩を夜空から突き離そうとする、缶ビールの詰め込まれたビニール袋。雨上がりの地面や電柱は両生類の皮膚を想起させる。それに加えて夜空の体臭。地面と両肩が織り成す角度は微妙な非平行で恍惚の予感。破裂の時を待ち構えている灰色が、未開栓のアルミ缶だけとは限らない。歩き慣れた緩やかなカーブに曲がり易さを改めて感じ取る。足音が自分の物では無い様な気がする。きっと、月の断頭台に繋がる透明な段差があり、それを昇っていく音だろう。
行く先々に聳え立つアパートのポストからはみ出ているチラシの一枚一枚が、卑しい舌にしか見えなかった事は、もういい。いつの間にか手ぶら。

コンビニで立ち読みしていた漫画雑誌が纏うインクの匂い。店員に背を向けて、麻薬中毒者の後ろめたさで粗い紙面に鼻を押し当てていた。離すと脂が点々と紙面に吸われていて。漫画の内容は覚えていない。

夜行バスの窓から漏れる暖色のぼやけた微光が、夜と朝との境界線としてこの街を通り過ぎていくまで、まだ時間はある。
夜を足止める為に、二足のスニーカーを歩道の中央に放置しておこうか。
スニーカーは絶対に歩き出さないから、もしも夜がそれを履いたのならば、束の間の静止、まるで、星座の様に隠蔽された動作の静止を得られるはずだから。

スニーカーを蹴り飛ばす人影は、依然、どこにも見当たらない。

地上は深海へと変貌し、全ての固形物がその輪郭を喪失していく。遠近を喪失した星月の光る天井に、電灯も等しく加わっていく。影が底無しの沼となり、夜空を遠ざけていく。夜空と海中とその下の地殻が織り成している筈の群青のグラデーションは、いつ感じても絶品。車道の黄色い光線と平行を描く電線に、漏電は青く、短く―――

―――酩酊。振動を続ける分子の群れをすり抜けて得られた軌跡を、唇を用いて沈黙から旋律へと移し変えていく。唾液で溶かせるのはキャンディーだけではないから、呼吸する事が、歌うという事。溶け合いひとつの薄明かりになってしまう前の、奏でられてしまう前の、星月から欠けたばかりの黄色い音符の羅列にも、じっと目を凝らせば、今なら触れられる様な気さえする。夜の黒ずんだ川を懐中電灯で照らせば驚くほど透き通っている様に、この夜空の体積がどこまでも広がっていく様な。そんな気が。

視線を視界の端にぶつける度に鳴り響く鐘の音が、月に波紋を起こして、意識の転落はとどまる事を知らない。歯裏と吐息の衝突が次第に弱々しくなっていくのに合わせて、鐘の音の反響が、僕と夜空とを遮る海面が、遠ざかっていく。

「太鼓は小気味好く叩くもので・・・人肌は優しく撫でるもので・・・酩酊、そう、酩酊だけが、僕の唯一の感情で・・・」

あいこのじゃんけんを延々と向かい合って続けている信号機には、こちらも、もう構わない。
空も夜、地上も夜、ならばきっと地中も夜だろう。などという詭弁によって生じた僕は、この夜が明けた時、もう生きてはいないから。

「魔法使いがシンデレラに割れ易いガラスの靴を履かせた真の意図は、がさつな物腰を抑えつけて、無理やりに上品さを引き出す為だったんだってね」

ラベルを剥がして中身を排水溝に流したペットボトルに、手帳の一枚を破り取り、『自殺だなんて・・・。』と、一行記しただけの手紙を、丸めて、詰めて、蓋をして。異国の砂浜に漂着する事を祈りながら海原にビンを放り投げる様に、この夜の記憶を失くした自分がいつか拾います様にと、街路樹の根元に立てかけておいた。

「風が震えながら、ある噂を運んできたんだ。その噂が本当なら、僕はそれを悲しめばいいのかな?それとも、真実が伝わった事を、喜べばいいのかな?」

襟を広げて中を覗いてみれば、頑なに口を閉ざす二枚貝の心臓を求めて、毛穴という毛穴から湧き出てきていた白い繊毛が、僕のシャツをざわめかせていた。風は、どこにも吹いてはいなかった。嗚呼。不吉な予感が、僕の爪先を導いていく。僕の背中を押しながら、どこまでも、どこまでも、吹き抜けていく。この。酩酊、の。酩酊の、夜。を―――。


自由詩 酩酊の夜 Copyright 竹森 2015-02-26 01:19:07
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