編み物にまつわるあれこれ
そらの珊瑚

  いくたびかそのセーターは洗われて等しく縮みつつ仔へ還る

  特別な季節であったのだ少女らは毛糸の虜になって

 編み物をしている時間というものは、傍から見ていればただ退屈な時間であるかもしれないけれど、編み物をしている人にとっては、そこに編み目以外のものまでもを込めながら過ごす静謐な時間という気がする。出来上がったその先には人を温めるものがある、それが自分のためでも、自分以外の誰かのためでも。
 たとえば、病院の待合で、スマホでなくて、編み棒を手にしている女子(この場合、年齢問わず)がいたら、その指先が 繰り出す動きについ見とれてしまう。編み物が出来ない私にとって、それはいつまで経っても傍観者(というか敗北者?)としての感想でしかないのだが。
  
 不器用な私は、結局マフラーの一本も完成させないまま、冬は過ぎた。
 それを贈られなかった人にとっては、まったく幸運以外のなにものでもなかっただろう。手作りというものは、なんにせよ捨てるのがきっとはばかれる種類のものだから。


  セーターにふゆの嵐を編み込んで君はひとりの夜を耐へてをり(笹井宏之)

 結句の「夜」を最初、「よる」と読んだら、おさまりが悪かった。それならば、「て」を取って「耐えをり」にすればいいのでは? と不遜な事を考える。しかしそうすると、現在進行形という景色が失われてしまう気がする。それではこの作品の持つ共感性が失われてしまうだろう。ああ、そうか、「よる」ではなくて、これは「よ」と読ませるのだ! そして、ふたたび声に出してとなえてみる。すると「よ」が「世」に変わった。そんな私だけの答えにたどりつく。だから、うたって面白い。
 
 この作品のまなざしが好き。「ひとりの夜」つまりふゆの嵐さえも孤独に比べたらなんのことはなくて、編み込むモノが尽きれば嵐さえも編み込み、
 そんな寄る辺のない時間を過ごした「君」を、
 もしかしたら今、そうやって過ごしている君を、
 遠くでみつめるような作者のまなざしが、とても好き。
 作者はおそらくそんな孤独というものを知っていて、またはその渦中にいて、セーターの代わりに、うたを編んでいるのだろうと想像する。
 うた、というものは、作者の命がなくなってなお、人に心がある限り、命ながらえるものであるなあとしみじみと思う。  

 


 


短歌 編み物にまつわるあれこれ Copyright そらの珊瑚 2015-02-25 12:17:48
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