遠さについて
葉leaf




私はかつて二つの遠さを抱えていた。一つ目は社会的な意味での遠さである。私は職に就くこともなく、難しい国家試験の勉強を数年続けていたが、一向に成績が上がらず、模試や本試験のたびに絶望するのだった。それだけではない。私は世間からの脱落者とみなされ、周りからごくつぶしと呼ばれ、社会的に一切認められることなく、当然自己評価も低かった。私はもはや人生の終焉を感じていた。人生が終わった後の彼岸にいながらにして、その限りない遠い地点で世間の出来事をぼんやり眺めていた。人生が終わったはずなのに、なんで世界はこんなに鮮やかなんだろう、そう思うと悲しくて笑えてきた。

もう一つは実存的な意味での遠さである。私は根源的に愛は不可能だと思っていた。友愛、恋愛、家族愛、全て不可能だった。私は全て愛してくるものを拒絶し、自ら他者を愛することなく、むしろすべてに憎しみを向けていた。すべてのものは守るためや維持するためにあるのではなく、軽蔑し破壊するためにあるのである。私は誰からも愛されないし誰も愛さない。全ての連帯を拒絶する、なぜなら連帯は汚らわしく卑しいから。人間を人間の奴隷とするものが愛であり、人間を人間の君主とするものが愛の拒絶だったのだ。私は人間の君主でいたかったが、それはやせ我慢にすぎず、本当はいつも愛に絶望的に飢えていた。愛無き沙漠もまた限りなく遠いところにあった。

私は今では職を得て社会的地位を得て人の輪の中で働いている。人生の終焉などという隔絶した地点から自然と帰還し、愛無き沙漠などという最果てからも無事帰還した。今思えば、それらの遠さの本質は故郷喪失であった。私は居るべき故郷を失い、青春の一時期、社会的あるいは実存的に寂しい異郷へと迷い込んでしまったのだ。私は今では故郷に舞い戻って来て、人生は再び始まり、人との愛の連鎖に組み込まれた。だがときたまフラッシュバックのように、かつての遠さが蘇ることがある。通勤しながら、仕事をしながら、ふと、とてつもない孤独感、愛の欠乏に襲われるのだ。そのとき私は分からなくなる。私にとって、実は青春こそが故郷だったのではないだろうか。人生の終焉や愛無き沙漠という限りなく遠い場所こそが私の原点であって、私は本当はそこで生まれ、今の愛に満ちた人生こそが異郷なのではないか、と。日々安穏に暮らし感性も知性も摩耗していく今の暮らしよりも、常に不条理な衝動に脅かされ、目は血走り口は渇き、感性も知性も病的に鋭かった青春のあの地点、私という人間の本質と自己規定と存在根拠はそこにある。私は故郷から離れてこんなにも遠くに来てしまった、愛に満ちた平凡な人生という限りなく隔絶した異郷へと。この遠さを前にして、すべての哲学は無効である。


自由詩 遠さについて Copyright 葉leaf 2015-02-06 04:38:37
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