元日の夜に
草野大悟2
大声で呼ばれたような気がした。
元日の夜七時を過ぎた時間。
私は、東京と福岡から帰省した長女夫婦と小学六年の孫息子、次女夫婦と四歳の孫娘たちに囲まれ、妻手作りのおせち料理を肴に、この日のために買っておいた山口の銘酒獺祭(だつさい)を、もうかれこれ四十年近く使っているお気に入りの信楽の酒器に注ぎ、ちびちびとやっていた。
二人の義理の息子たちもいける口で、私に付き合ってくれている。
長女は妻に似て下戸であり、ビールをコップ一杯飲んでもう顔を真っ赤にしている。
次女はたぶん私に似たのだろう、私たちと同じペースで飲み続けているが、酔いの気配をまったく見せない。
年に一度、帰省した娘たち一家と、こうして酒を酌み交わしながら孫たちの学校や保育園での様子を聞いたり、娘婿たちが撮ったビデオカメラの映像を、60インチの大画面テレビで見る。一年で最も楽しいひとときである。
二人の娘たちの日常が平和で、家庭生活も円満であることが手に取るように分かり、心が温かく満たされる。私の横に座って、長女と同じように顔を真っ赤にしている妻の顔にも、いつもにも増して笑顔が溢れている。
「ねえ洋ちゃん信じられる、香織、あと十一日で三十九だよ、三十九。最近は、時間の流れがなんか早いのよ、とても」
「そうよねぇ、お姉ちゃん。亜紀は十月に三十八になるけど、早いよね、確かに」
「四十過ぎたらもっと早かばい」
「洋ちゃんもそうだった?」
「ああ、そぎゃんだった」
「みっちゃんは?」
「美智子? 美智子はねえ、普通」
「は?」
「だから、普通」
「そぎゃんねぇ。ミチの場合、やっぱ普通だな、うん」
「ねえ、ねえ、なに二人で分かり合ってんの、私たち全然理解できないんですけど」
「そっでよか。次第に分かる年齢になる」
「そうですよね、お父さん」
「そぎゃんたい、修三君」
「俺もそぎゃん思います」
「だろがい、龍兵君。うんうん、二人ともよーできた旦那ばい。なあ、香織、亜紀」
孫息子のツブラと孫娘のテルマは、そんな大人の話にはまったく無関心で、一心にお笑い番組に見入り、大声をあげて笑い転げている。平和だ。平和そのものの日本の正月だ。
ピンポーン。イターホンが鳴った。モニターには、七、八人の男たちが映っている。
「今晩は、田中です。夜分、本当にすみません。どうしてもお話ししたくて、元日にはなはだ失礼かとは思ったんですがお伺いした次第です」
年かさの恐縮した顔がモニターにあった。 本当に、恐縮しているらしいその顔をよく見ているうちに、私の中に、自分でも説明できない、なにかとても懐かしい気持ちが湧いてきた。
なんだ、この懐かしさは?
なんだ、この温かさは?
こんな男たち見たこともないのに、話したこともないのに。
私の頭の中をいくつもの? が飛び交い、いまにも煙を噴き上げそうになっている。 とにかく、この気持ちの源を明らかにする必要がある。そうしないと、この元日の幸せは、するり、と指の間から逃げてしまう。
そう感じた。
しかし、見も知らぬ男たちを、何の確認もなく家の中に入れる訳にはいかない。
「洋ちゃん、何難しい顔してるの?」
美智子が小首をかしげて訊ねた。
「だって、この訳の分からん連中をすんなり家の中に入れる訳にはいかんだろう」
「あら、いいんじゃない。美智子もなんか話してみたい懐かしさを感じるし」
「感じるのは勝手ばってんね、連中が強盗とかだったらどうする?」
「その時は、洋ちゃんが得意のボクシングでパパパッとやっつければいいでしょう」
「あのなぁ、そぎゃん簡単に言うなよ。相手は七、八人はいるとばい」
「ねね、じゃ追い返したら?」
もう既に顔を真っ赤にした香織が、無責任に言う。
「そぎゃんすっとは簡単たい。ばってんな、なんか連中と話してみたい気も強かつよ」
「もうっ、なにいつまでうじゃうじゃ言ってんの! 適当に二、三人家に入れて話せばいいじゃない」
ビールを飲みながら亜紀が決めつける。
「それにさあ、男は洋ちゃん一人じゃないんだし。修ちゃんだって、龍くんだっているじゃん。ね」
ね、と言われた二人は、素早く目を逸らしている。こいつら、まったく当てにならんな、私は、心の中で舌打ちする。
それが聞こえたのか、聞こえる訳はないはずだが、龍兵が、任せて下さい、と胸を張った。これでも剣道初段ですから! また胸を張る。
剣道初段って、いつの話だよ。中学校のころだろそれ、ぶつぶつ呟きながら、一応
「そぎゃんな、頼りにしとるばい」
と言っておいた。
「お父さんは、日頃えらく強そうなこと仰ってるけど、以外とビビりなんですね」
「修三君、君にだけは言われたくない。んじゃ、そう言う君はどうなんだ、えっ!」
つい感情的になり、熊本弁も忘れてしまう。我ながら情けない。
「よーし、それじゃ、三人だけ入れよう。弱そうなのから選んで」
「それはいい考えですね」
すかさず修三と龍兵が反応する。
女三人と孫二人は、まったく興味なさそうに世間話とテレビに興じている。
私は、モニターに向かって声をかける。
「田中さん、でしたっけ?」
「はい、田中です」
「田中さん、うち、今子供達が帰省していて手狭になってるんですよね。それでですね、今から私が指定する人だけ三人、家に入って下さい。それでいいですね?」
「ええ、ええ、もちろんです。もちろん構いません」
「そうですか。それじゃ、田中さん、あなたと、あなたの横にいる人と、そうだなあ、あなたの斜め後ろの小さくてか細い人」
「はい、分かりました」
私が玄関のオートロックを外すと、その三人が家の中に入って来た。
三人ともいかにもひ弱な体格をしている。 これなら、たとえ何があっても勝てる、そう確信した。
「すみませーん。せっかくの一家団欒の最中に」
「そうですねぇ。普通あり得ませんよね。こんなシチュエーション」
私は、すっかり熊本弁訛りの標準語になって精一杯の不快感を示した。ところが、三人は、まったく意に介さず
「わぁ、豪勢なおせちですねぇ。それに、このお酒、あの獺祭じゃないですか」
と舌舐めずりしている。
そうなると黙って放っておく訳にもいかないかな、と思った途端、
「せっかくですから、よかったらどうぞ」
美智子が三人分の取り皿と取り箸とお猪口をテーブルの上に出した。
おいおいおい、いくらなんでも人良すぎだろう美智子。目で語ったが、美智子は、ん? という顔をして小首を傾げただけで、にっこり笑っている。この人はいつだってそうだ。
人を疑うことを知らない。
ええいもう、どうとでもなれだ。
それに、こっちも屈強? な男が三人いるんだ。いざとなったら……、どうしよう……。「それじゃ、お言葉に甘えまして」
田中がおせち料理の唐墨を取り皿に取った。
「君たちもご相伴にあずかったらどうだい」 もじもじしている二人に言う。
「はい、それでは遠慮なくいただきます」
三人とも、お言葉に甘えたり、遠慮なくいただいたりするんだ、こんな状態でも。信じられん。
「はぁ、美味しいですねえ。これ、京都の老舗料亭のおせちですよね。日本酒ととても相性がよさそうですねえ」
語尾を微妙に伸ばして、田中が私を見つめる。次に、獺祭を見つめ、お猪口を見つめる。 飲むんかい! 幾らすると思ってるんだ獺祭! 一年一度の贅沢をちびちびやってたのになんなんだ! 私は、ついに、心の中まで熊本弁訛りの標準語になって絶叫する。
「ええ、とってもよくあいますよお」
美智子もなぜか語尾を伸ばして、獺祭を田中のお猪口に注ぐ。あ、あ、あーっ。いくらなんでも、いくらいい人でもそこまでする?普通。私は、またもや心の中で絶叫する。顔は、おそらくムンクの叫びになっているだろうことは、想像に難くない。
「うーん。旨い。絶品ですねぇ、獺祭。機会があったらぜひ試してみたいと思っていたんです。君たちもいただいたらどうだい」
「はい、喜んで」
田中の言うことには、とても素直に従う二人。彼らの中には、謙譲の美徳だの遠慮だのという概念が欠落しているらしい。というか、完全に欠落しているぞ! 私は、またもや胸の中で絶叫するのであった。
その間も彼らの手は留まることを知らず、おせちとお猪口を行ったり来たりしている。
「あのう、よろしかったら、お雑煮いかがです?」
ああ、美智子。君は、なんて、なんて、うーん、産まれっぱなしなんだ。なんという抱擁力、なんという人の良さ。君は、聖母マリアの生まれ変わりか? などと感心している場合ではないな。今は、絶対。ここは一番きっちりと言ってやる。言ってやるべきだ。ガーンと。
「はい、ぜひ」
ガーンと言う前に、奴ら三人に先を越されてしまった。
三人は、美智子がよそってきたお雑煮を、いかにも美味そうに、はふはふ言いながら、黙々と食べている。
それを見ていると、なんだか温かなものがもわーっ、と私の中に広がっていった。
なんなんだこれは? 一体全体私はどうしてしまったんだ。
美智子を見る。にっこり笑っている。笑いながら奴らが雑煮を食い、おせちを食い、獺祭を飲むのを見て、幸せそのもののような顔をしている。やはり、この人は、マリア様だ。私は、そう確信した。
「お宅では毎年元日はこうなんですか?」
突然、田中が箸を止めて訊ねた。酒が弱いのか頬のあたりが赤くなっている。
私が答えるより先に、そうですよ、と女三人が口を揃えた。そうなんですねぇ、良いご家庭ですねぇ、羨ましい。田中が真から羨ましそうに言った。
「私たちにもですね、一応、家庭がある訳ですよ。それなのに、こうして元日から仕事なんです。家族からは文句は言われるし、正月気分は台無しだし……まったくやってらんない」
それまで、田中の指示にただ従うだけだった二人のうち、体も髪の毛も薄い小さな男がため息交じりに言った。
「そうです。僕も同じ様なもんです」
一番若い、ひょろりとした長髪の男がため息交じりに追随した。
「まあまあ二人とも、そんな話を洋太郎さんご一家にしても迷惑されるだろう。それは、組織の問題として、今後検討してゆくことにしよう。それでいいね」
田中が念を押すと、二人は黙って頷いた。
私は、その時、またあの懐かしい温かさに包まれていた。田中は、私の姓ではなく、名を呼んだ、洋太郎と。どうして彼が私の名を知っているのか、本来なら不思議に思って彼を問い詰めるはずだ。しかし、私は、そうしなかった。それどころか私は、「おおごつですねぇ。ま、ま、一杯どうぞ」と、獺祭を体も髪の毛も薄い小さな男のお猪口に注いでいた。男は、一瞬だけ驚いたような顔をしたが「あ、ありがとうございます」と言うが早いか、獺祭を一気に飲み干したのだった。
リビングのテレビは、相変わらずお笑い番組を続けている。ツブラもテルマも夢中で見て、笑い転げている。
香織と亜紀は、男三人が入って来たときに、多少の興味を示したものの、今は、玩具に飽きた子供のように、お互いの思い出話に花を咲かせている。
三人の相手をしているのは、もっぱら私と美智子の二人で、時々、龍兵と修三が加わる。
「ところで、田中さん。あなた達、なんで家に来たとね?」
私も酔いが回ってきて、彼らがなぜ家に来たのかなど、どうでも良くなっていたのだが、ここは一番、家長としての威厳を示さなければならない。
「はあー、そう仰いましてもですねえ」
田中が間延びした顔を、さらに間延びさせて、間延びした声を出す。
「洋太郎さん、私たちに、なーんか懐かしさとか温かさとか感じません?」
長髪のひょろり男が訊ねた。
一瞬、ドキッと胸が鳴った。こいつらは、人の心の中が読めるのか? そう思った。
「今、こいつら心の中が読めるのか? って思ったでしょう?」
体も髪の毛も薄い小さな男が、目を細めて私を見つめた。
今度はゾクッと全身が粟立った。心の中でなにも思わないようにしなければ、胸の内を全部読み取られてしまう。そんな私の考えを見通したかのように、三人は、にやにやしながら私を見ている。
さすがに、龍兵と修三も不気味さを感じ取ったのだろう、「あんたら一体なんなんだ?」
語気を多少荒げて、しかし、慇懃に笑みを浮かべて訊ねた。
「お二人のお顔、ちょっと不気味なものがありますねえ」
なーにが、不気味なものがありますねえ、だ、田中! それにお前らの方がよっぽど不気味なんだよ! 叫び出したいのを無理に堪えた。
「洋太郎さん、無理はいけませんよ無理は。
思ったことは、口に出さないと、ストレスが溜まります。それが遠因になって心の病気になるケースも多く見受けられますからね」
くーうっ、こいつ。私は、思わず歯ぎしりしていた。こいつら医者なのか? そういえばどことなく頭良さそうな、薬臭が漂ってきそうな、そんな気がする。
「あんたらお医者さん? ……ですか?」
龍兵もついつい丁寧口調になってしまっている。
「ま、大きなカテゴリーで捉えれば、そういえないこともありません」
田中の言に、他の二人が大きく頷いている。
大きなカテゴリーで捉えればだと、なに訳の分からないこと言ってる。事前に何の連絡もなく、突然、家にやって来やがって、しかも、元日の夜に。私は、また歯ぎしりしていた。
お笑い番組はまだ続いている。孫たちもそろそろ飽きてきたのか、大きな欠伸をし始めた。娘二人は、相変わらず話に熱中している。
時計は、午後八時半を回っている。時計をちらりと見て田中が言った。
「洋太郎さん、もうお分かりでしょう、私たちが何者で、何のために、元日のこんな時間に、ご無礼も顧みずお伺いしたか。そして、あなたを始め、ここにおいでのご家族の皆さんが、懐かしい温かな気持ちを抱かれるのか」
「もうお分かりでしょう、って言ったってねぇ。いっちょん分からんばい」
「僕たちも、皆目分かりません。お姉さんはどうなんですか? 彼らのこと分かります?」
「美智子? 美智子は……、分かりませんけど、何か問題でも?」
「いや、そんな、問題なんて、全くありません。こんな質問をした僕らが馬鹿でした」
「そうね。前からそう思っていたけど」
「えーっ、全面肯定? です?」
「そうだけど、なにか?」
「い、い、いや……問題なんかありません。お母さんに問題なんかある訳ないじゃあありませんか。なあ、香織」
「ん、聞いてなかった。なーに?」
「いいよ、もう、いい」
「もういいって。なによ龍ちゃん」
「亜紀ちゃん、もういいんだって。美智子お母さんに問題なんかある訳ないじゃあないか、という話、これで終わり」
「勝手に始めて、勝手に終わる。男って大体がそうよね、お母さん」
「そうよ。男なんてそんなものよ。亜紀、香織やっと分かったの?」
香織も亜紀も大きく頷いている。
それで、そんなものな男三人と来客三人は、
なんとなく一体感を共有しつつ、お互いの顔をしみじみと眺め、はーあ、大きなため息をつくのだった。
その時、はーあっ、と、さらに大きなため息が聞こえた。田中ら三人が一斉に同じタイミングでついたため息だった。
むかっ、とした。なんでこいつらがため息なんかつくんだ。しかも、三人一緒に。
「洋太郎さん。私たちも仕事柄ずいぶんといろんな家庭を拝見してきましたけど、ここまで物事に鈍感な、いや、失礼、物事におおらかな家族は今まで出会ったことはありません。
そういう意味で、私たち、今、非常に感動しています」
「は?」
「感動してるんです!」
体も髪の毛も薄い男が涙目で言った。今にも号泣しそうだ。全く訳が分からない。全然分からない。感動? なに? 感動? 私の全身に、またもや ? が満ちあふれてゆく。
「ええ、美智子も感動しました」
どうしたことか妻まで涙目になって、今にも薄っぺらい男と手を取り合って号泣しそうだ。
「田中二、田中三。そろそろお暇するぞ。長居は、皆さんにご迷惑がかかる」
田中がしかめっ面して言った。ああ、この二人、田中二と田中三というんだ。してみると、これまで田中さんとよんでいた人物が、
田中一?
どうでもいいことを、どうでもいい気分で、私は考えていた。
「それでは、洋太郎さん、皆さん。突然お邪魔したうえ、ご馳走にまでなって、誠にありがとうございました。これで、私たちの今年の仕事始めは終わりです。今年一年が皆様にとって良い年になりますよう、私たちチーム一丸となってお祈りしています」
田中一と田中二と田中三は、綺麗に頭を揃えておじきし、「お元気で」との言葉を残して、外で待っていた連れと一緒に帰っていったのだった。