葉leaf




私は福島の田舎の自治体に生まれ、地方の国立大学を出たのち、生まれ故郷の市役所に就職した。私は原子力災害以降、主に除染技術の研修の業務に携わり、日々様々な問題を解決しながら業務に励んだ。確かに私は被害者だったが、福島の復興のために何よりも大事なことは、被害者面をすることではなく、淡々と自らに与えられた業務をこなしていくことだと思っていたので、使命感を持って業務に取り組んだ。そして、そんな年も終わり、遂に仕事納めとなった。私は市役所を出ると、夜の街の中を、コートに冷たい風と雪を受けながら、バス停へと向かった。私の緊張の糸はほぐれていて、ただ疲労感だけがあった。

街角で信号を待っていると、反原発団体の人たちが演説をしていて、甲状腺がんの発生数など、福島はこれだけ危険な状況にあります、と幾分偏り誇張された内容をスピーカーで話していた。私はその内容に同意したわけではないが、そこで何か自分がまとっていたものが破壊されたかのように感じた。気づいたら私は嗚咽を漏らし泣いていた。自分がこれまで携わってきた業務の数々の劇が一気に押し寄せてきて、そしてさらには、自分の町が原子力災害によって被害を受けた事実が噴出してきて、私は泣くことでしかその奔流に行き場を与えることができなかったのだ。放射性物質による汚染との戦いに私は疲弊しきっていた。仕事をするにあたって自分の感情にまとわせていた鎧が自然消滅したとき、突き刺さってきた反原発団体の被害者感情が、私の裸の感情を刺激した。

人生とは湖のようなものだ。本来私たちを呑み込み溺れさせる深淵を備えている。だが私たちはその湖に氷を張ることによって、氷を割らないよう注意深く歩きながら平坦な歩行を確保している。仕事とは、業務とは、この氷の存在がなければ不可能である。氷の下に隠れている怒りや悲しみの感情に溺れていたのでは業務に支障が生じるし、いつまでたっても復興へと歩みを進めることができない。だが、やはり人生は氷の下の膨大な水の方に本質があるのだった。私は仕事納めの日に反原発団体の演説を聴くことで、自分の載っている氷が突然割れてしまったのを感じた。私は急激に、氷の下に隠していた、業務や事故から発生する沢山の消化しきれない感情に溺れそうになった。私の流した涙、この放射能の町で放射能と戦う仕事をしているのだなあ、という感慨に基づく涙、これは、私の湖から流れ出た美しい川の一条に他ならない。私の鎧の下に隠された柔らかい感情のひらめきに他ならない。


自由詩Copyright 葉leaf 2014-12-28 01:28:14
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