愛と孤独の彼方へ
葉leaf
光冨郁埜の詩集『豺』は、大雑把にいうと二つの原理と二つの空間から成り立っている。二つの原理とは傷と愛であり、二つの空間とは体験と虚構である。
人間誰しも生きていれば心に傷を負うものである。傷は外的なものが不意に内部に暴力的に侵入することによって生じるものであり、断片的でまとまりがなく、回避されると同時に脳裏に反復され、感情の複雑な混成体を作り出す。傷は本質的に孤独に抱え込まれるものであり、また外的衝撃が訪れたときに誰も助けてくれないという孤独は傷を生み出すし、対人関係において傷を負った人間は孤独に生きることになじんでしまう。傷は孤独の中にあり、孤独により生み出され、孤独を生み出す。
愛は他者や社会と共生する欲望であり、共生それ自体が目的となる。人は相手を保護するように愛することもあれば、相手に依存するように愛することもある。本能的な、あるいは発達の諸段階で徐々に獲得していく愛もあれば、社会生活の中で獲得していく愛もある。愛は連帯の中に入り込みたいという欲求でもあり、連帯の中で新たに発生してくる安定感でもあり、連帯の中に自己を見失う危険も蔵している。
光冨は自己の孤独を叫び立てているだけではないし、愛の充溢をのんきに歌っているわけでもない。傷から発される支離滅裂な表現に終始しているわけでもないし、満たされた愛を多幸感いっぱいに自慢するのでもない。光冨は常に愛と孤独との途上にいて、自らと向き合い、どこへ向かうともわからない軌道へと自らを投げ出し、自らを超えていこうとするのだ。
(お前は「キチガイ」だ、あのひとは、
(二十数年間、わたしを罵りつづけて、
(わたしはわたしを生んだあのひとを、憎んでそだった、
(「ヤマイヌ、ヒトニアラズ」)
この詩編で光冨は、子供の頃に母親から愛されず、むしろ罵倒され、死ぬことすら考えたことを物語の形で告白している。彼は母親から愛されようとして愛されなかったという傷、母親からの心理的な攻撃による傷、そして愛する母を憎まなければならなかったという傷を背負って育ったのである。このような傷は容易に解消されるものではない。それは固定的で、断片的で、直視するのには苦痛が伴う。光冨としては、それを解消しないままずっと孤独に抱えていてもよかったはずである。だがそのような幼児の傷を物語として言語化することは傷の解消になる。そして、光冨は単に孤独に自らの傷を癒すだけではなく、それを他者に開かれたものとして、他者が読むに堪えるものとして、作品的強度を備えたものとして他者との物語的連帯に持ち込んでいるのである。ここには光冨の、孤独で傷を負った自己を超えて他者との連帯の中へ自己の物語を試していく姿勢が見て取れる。
(わたしのひとよ
(わたしの土を喰らうとよい
(それであなたが新たにそだっていくのであれば
(「幼虫」)
この詩編は、作者の愛する人が新しく生まれていくことに希望を見出し、「やがて わたしたちは 並びたち/金色にそまりだした 翅を 天にむける」という具合に、愛する人と共に生きていこうとする希望を歌っている。だが、この詩編の示す連帯もまた安穏なものではない。この連帯には互いに破壊し合いながらもかろうじて成立しているような危うさがある。光冨が連帯を描く場合、連帯はたいていこのように却って、孤独な主体の闘い続ける姿勢を浮き彫りにするのである。ここには、光冨が安易に連帯に安住していたのではなく、そのような連帯を超えて自己自身の闘いを見つめようとしているのがうかがわれる。
さて、これまで見てきた、孤独から連帯へ向かう主体であると同時に連帯の中でも孤独であり続ける主体であるという光冨の在り方は、彼の生々しいリアルの在り方である。だがこの詩集には、そのようなリアルの自分を吐き出すだけにはとどまらないもう一つの平面がある。それが虚構の平面である。
女の寝息のなかで、ふたたび目を覚ますと、淡い光と陰の部屋は、洞窟だった。その洞窟の入り口からは、紺色の凪の海が見えていた。女の背中越しに、ぼんやりと夜の海を眺め続けていた。わたしの手の甲に、女が無意識に手を重ね、吐息をもらした。
(「砂と太陽。」)
第二部「潮騒」では、主人公と「女」との不思議なやり取りが描かれる。女は確かに人間のようだが、声は風にしかならない。女は主人公に好意を持っているし、主人公も女に好意を持っている。だがそこから恋が発生するのでもなく、表情による豊かなやり取りがあるだけである。確かにこれは、光冨が、母親から愛されなかったことを補償するためにつくりあげた癒しの劇だとも見ることができる。だが、それだったら、ここまで情景を丁寧に描写し、ここまで豊かに想像力を膨らませる必要はなかったはずである。それに、バーから部屋、仕事場へと場面を移したり、その合間に女の声を降らせたり、部屋になぜか砂があったり、夢の中で洞窟に居たり、光冨の語りは非常に工夫に満ちている。それはミステリーとスリルを生み出し読者を楽しませる語りであって、この語りは明らかに、読者に語られる内容を虚構だと受け取るように要請している。我々はいわば観客席に座って、光冨の織り成す虚構の舞台を、一つの完結したテクストとして観賞する必要があるのである。ここには、第一部「ひとの声」のようなリアルな空間ではなく、虚構的なテクストの空間が開かれているのが分かるだろう。だから、読者はこのテクストを光冨の実体験に還元する必要は全くない。読者は一人一人違った風に、主観的にこのテクストを読み、また楽しむことができるのである。
灰色の毛皮のところどころに褐色の部分がある。鼻から額にかけては黒っぽい色をしている。わたしに牙をむくことはないが、ときおり覗かせる歯は鋭い。わたしは膝を折って、木の根本に座り、豺の背に体をよせた。豺はわたしの匂いをかぎ、口元をなめる。互いの体温だけを頼りにした。
(「火」)
第三部「豺(ヤマイヌ)」では、主人公は豺に取り囲まれ、また豺と親密な交渉をする。これはもちろん、光冨の少年時代の記憶と願望なのかもしれない。同輩たちから敵意を持って迎えられる一方で、自分に似た仲間と仲良くしたい、そういう気持ちが投影されているのかもしれない。だがやはり、ここに現れるテクストの詳細さとエンターテインメント性は、光冨のリアルの在り方にある程度根差しながらも、そこには回収され尽くせない独自の論理と展開があると見なければならない。光冨は、リアルな自己の傷の治癒という差し迫った要求に従うのに終始したのではない。そこには何の遊びもないし余裕もない。そうではなく、リアルな自己を題材としながらも、そこから一気に虚構の平面を展開させ、偶然的に湧き起ってくるアイディアに駆動されながら、テクストの詳細さと整合性・エンターテインメント性を作り出し、余裕に満ちた遊びの空間を展開しているのだ。
多くの人がそうであるように、光冨もまた傷を負った孤独な存在であり、連帯を求める愛を抱いた存在である。だが、光冨はそのようなリアルの自分を物語的に治癒しながらも、そのリアルの自分を虚構の次元に解放し、エンターテイメント性のあるテクストの制作と共有によって、新たな孤独と連帯を手にしたように思われる。読者はもはや光冨の実存まで遡ってはくれず、好き勝手な読みを始める、その意味で光冨は孤独になった。だが、自らの実存を普遍的なテクストとして読者と共有することで、光冨はリアルな次元とはまた異なった連帯を、数多くの読者と同時に結ぶようになったのである。