記憶を宿すこと
深水遊脚

 私はオリジナリティーという言葉をあまり信じていない。言葉は語り継がれるもので誰かが一人占めできるものではないから。それに誰かが作品として発表した言葉やものの考え方に似たものが過去にあったからといって、それだけでその作品が駄目だということにはならないから。それでもコピーが容易になって久しいいま、言葉にそれを発する人の記憶が宿っていることは魅力のひとつであると思う。魅せることは装いやメイクで表現され、文芸ならば推敲にあたる部分だと思う。「思う」と語尾につけるあたり、私に装いや推敲についての自信がないのであり、きっと書くものにも粗忽さが見えてしまっている。それでも書いたものに記憶が宿っているかを確認する作業はその都度していて、それは人の視線に晒されることで磨きがかけられるのだと「思う」…また語尾がこれだ…

 「記憶を宿す作業」という言葉を現代詩フォーラムに投稿した散文 "That's Me" で使ったけれど案外自分で気に入っている。人の記憶は不完全なものだ。などと言い切るのは私の記憶力が悪いからで、もしかしたらすべてを覚えていられる人もいるかもしれない。不完全でも記憶に行き場所がないわけではなく、話す言葉や書く言葉に現れる。言葉がやりとりされ、語り継がれる現場で記憶も交換されることになる。様々な完成度のそれらがぶつかりあうとき、摩擦も起きる。

 語り継がれる現場は、文芸でも仕事の場面でも、きちんと知っていなければならないことが重視される。仕事はわかりやすい。納期までに製品を求められる品質で納めること、お金や物の動きを誰にでもわかるようなかたちで示すこと、というふうに目的は明確で、そのためにするべきこと、してはいけないことは大体決まってくる。文芸の目的は何だろう。〆切のあるものは仕事であり、納期までに文章を求められる品質で納めること以外にはないかもしれない。品質を高めるために取材や調査を重ねることもあるだろうし、また普段から一定の品質を維持するために習慣的にすることも様々にあるだろう。日記をつけたり、あるテーマを設定して勉強したり、グループに参加して情報交換したり。最終的には作家の価値観、作家がなにを伝えたいかが核心になるけれど、それを読者と共有するために品質を高める活動がきっと必要になる。

 私的な会話や文章のやりとりに、仕事で求められるそうした活動が欠けていても大丈夫だろうか。たぶん表立っては誰も咎めない。それに誰でも少しずつできていないところは持っているのだから、欠けている部分を大目にみる心はある。欠けている部分が許せない人は離れて行き、欠けていても受け取るものの方が大きいとお互いに感じたなら関わりあって行くことになる。でも欠けていることで何が起きるか想像することはとても大切なことだと思う。

 私の書くものに〆切はない。だからといっていい加減に書いているつもりもないのだけれど、どこかで書き手としての私がアマチュアであることを読者が理解することを当然のように求めている。言葉を受けとる人に宿っている記憶、他の人が言葉に宿した記憶を想像し、機会があれば確認する、いや確認する機会を逃さない。そんな仕方で、読者となにかを共有するために品質を高めて行きたい。

 言葉はただ流れるだけでなく、記憶を宿して流れている。私に解くことができる記憶はごくわずかなのだ。記憶を解くための鍵を詩を読むことで少しずつ増やしてゆきたい。


散文(批評随筆小説等) 記憶を宿すこと Copyright 深水遊脚 2014-12-14 12:35:43
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