幸福論
葉leaf



人間の行為を肯定するために幸せは捏造されました。仕事、ギャンブル、放浪、それが幸せであれば許される、そんな風に幸せでもないことが幸せ扱いされましたが、当の幸せ自体は空っぽの何でもありでしかなかったのです。幸せが空虚であるところから人間の幸せへの希求は始まるのです。人間の行為は大きな悲しみに向かっています。あるいは大きな喪失、大きな怒り。人間は梯子を掛け違える生き物です。掛け違えることでしか正しく梯子を掛けられない。サラリーマンが取引相手と交渉に成功します。コンビニの店長が売り上げアップに成功します。その先にあるぽっかり空いた涙の出るような空間、そこに幸せはあるのではないですか。どんな栄光も厳しく否定するような熱に満ちた空間、人はそこで泣き崩れることしかできないような空間、その空間を支配しているのが本当の幸せではないでしょうか。

幸せであることは人間であるための条件です。幸せでない人は人間としてどこか奇形と言え、人間として不完全です。ですが、不幸せな人の作り出すもの、例えば彫刻・絵画・文学、どれをとっても一流に美しいではないですか。幸せと美しさは矛盾するのです。不幸せと美しさが整合するのです。だから、結婚式の美しさ、新郎新婦の圧倒的なたたずまい、あれは本当の美しさではない。葬式の悲惨さ、離婚裁判のやるせなさ、そこに美しさが宿るのです。美しさとは不幸せがその欠落を埋めるために弾力的に運動し始めるところに宿るのであり、不幸せが歴史の末端で太陽と海とを混ぜ合わせるところに悠々と聳え立つのです。幸せは人間の生物レベルでの小さな平衡にすぎません。それに対して不幸せは宇宙と人間との関係で引き起こされる絶え間ない相克の削りかすが感情に変化したものです。

幸せは直接追い求めるものではありません。つまり自分がじかに幸せになるものでもありません。他人を幸せにして、その他人の幸せの照り返しを受けるところで間接的におこぼれに与かる、そんなところに本当の幸せはありはしませんか。じかに追い求められた幸せはどこか空虚です。それは自分しか満たさないからです。他人を大きく満たし、他人から溢れ出してくる幸せに同期するということ。そこに本当の幸せはありませんか。お金がなくて困っている人にお金を貸してあげる。そのときの相手の喜びが自分に跳ね返ってきませんか。その跳ね返ってくる喜びは、自分と相手が共有することのできるかけがえのないものではありませんか。幸せを独善的な満足で終わらせず、他人とのかけがえのない連帯を生み出すものとして用いること。僕はそんな幸せがいいと思うのです。




自由詩 幸福論 Copyright 葉leaf 2014-12-06 06:17:39
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