血
葉leaf
家族は血のつながりであり、歴史のつながりであり、土地のつながりであり、愛情のつながりである。家族を泉として、そこからつながりが徐々に遠くへと流れ着いていく。血のつながりは遠い祖先の瑞々しい表情にまで脈を走らせる。歴史のつながりは地球の物語の始まりにまで捜索の足を延ばす。土地のつながりは山から山へ、雲の影と共に大地を走り尽くす。愛情のつながりは共同体から社会・国家を駆動するチェーンとして規模の拡大に堪えていく。
(家族はいつでも偶然出会っている。親から産まれた子供は必然的に親と出会うようでありながら、そこにはいつも偶然の軽やかさと風通しの良さがなければならない。たまたま同じ車両に乗り合わせた乗客同士、たまたま同じ講堂で隣に座った学生同士、そんな初々しさとよそよそしさが、家族の濃密なつながりを成立させるために不可欠になっているのだ。家族がいる。呼吸をする。家族がいる。風が立つ。家族が話す。草がなびく。家族は人間を取り囲む自然そのものだ。)
家族においては主観性が私の形体を超え出てしまっている。家族の誇りは私の誇り、家族の恥は私の恥。家族の磁場が身びいきの振り子を揺らし、家族の電場が近親憎悪の嵐を吹かす。家族のことを眺めるとき、どんなに透明なメガネでも巧妙にレンズが加工されているし、そもそもメガネをかけないと肉眼が自ら色を帯びてしまう。家族の客観評価は記述され得ず、すべての評価は主観性の感情によって血が通されている。
(兄は兄である以前に私であり、私は私である以前に母であり、母は母である以前に妹であり、妹は妹である以前に父である。家族の中で風邪が一巡するように、家族の中では一人の喜びも悲しみも一巡する。私性は決して秘されたものではなく、ごく普通に家族の中で共有されているし、家族の私性もまた私によって十分飼い馴らされているのだ。)
私がかつえているような言葉、私を血の流れでもって肯定してくれる言葉、そこに家族のひらめきがある。心より発され、心より案じてくれる言葉は誰から発されようと家族の言葉だ。だから家族に血縁関係は必要ない。かつて、私が自己嫌悪と自己否定の病に侵されていたとき、親しかった女性に言われた「あなたはとても魅力的です」という言葉、命と血が通った言葉、そこに家族の真髄はよこたわっている。
(誰であろうと、命の温かいやり取りをする者同士は家族である。命を狙い合うのではなく、命を与え合うのである。私はその女性と遂に結婚することはなかった。だが私の最も欲していた言葉を的確に発した彼女は誰よりも家族の資格を備えていた。恋愛とは畢竟、血のやり取り、命のやり取りであり、だからこそ男女は血のつながりがなくても家族になることができるのである。)