冬
葉leaf
平日、休暇を取っていると、人々の鳴らす機械音が遠くから聞こえてくるようだ。みんなが労働という祭りをにぎやかに執り行っている、その祭りの囃子が風の具合で届くのを遠くで聞いているような気がする。友人に電話をしようとしても、誰も出る者はいないので、友情による柔らかく底を流れる結びつきまでも切断されたかのように思える。私は社会から愛想を尽かされたんだな、と思うのだが、同時に、私も社会に愛想を使わなくてよくなるのだった。
そんな冬の休暇の静寂の中にあって、私はひたすら冬の難解さに押しひしがれて憂鬱になっていた。私は大企業に就職したため、会社の仕組みや事務手続きが、迷宮のように果てしなく、迷宮のように入り組んでいることを実感していた。会社の仕組みにはいくつもの小部屋や隠し部屋、裏通りや隠し通路があり、派手に火を噴いている機関室や照明でいっぱいの大通りよりもそちらの方が重要だったりするのだ。合理的に筋を通された美しい茎のようなものの枝分かれから無数に反射される微細な光のきらめき、骨格ですら既に複雑で難解なのに、そこから閃いていく無数の細胞はもはや難解の域を超えて一種の禁忌ですらあった。ところで、冬のこの大気の沈み具合からくる異様な圧迫、これはどこか会社組織の難解さに似ていないだろうか。いや、ただ私は、たまたま二つの大きな難解さに直面している、ただそれだけのことなのかもしれないが。
冬もまた、単純に見ればただの日照不足と気温の低下なのかもしれない。だが、私を憂鬱にさせたのはそのようなものではない。むしろ冬の限りない難解さ、禁忌に近い難解さが私を憂鬱にさせたのだ。冬、木々は葉を落とし、多くの動物たちは眠りにつく。だが、そのような木々の中でひそかに脈打つもの、そのような動物たちの中に確実に累積されていくもの、それらの隠微な構造は極めて暴きがたい。地表を覆う大気が温度の低下によってその構成を変えていく無数の段階に巻き込まれると目が回るかのようだ。人々は厚く服をまとうが、その服には社会的な意味合いが沢山込められていて、その人の個性の表現であったり社会的地位の確認であったり複雑な要素が絡む。私は冬の到来とともに、そのような冬の難解さによって螺旋を描くかのように墜落し、不安になる。同じような難解さは別の季節にもあったはずだが、冬の凍てつく圧迫と生活の煩わしさと本質的な静けさは、否応なく人々の難解さへの感受性を増す。単純そうでありながら無数のひらめきをちらつかせる冬、その迷宮のような構造を前に、私は憂鬱であり、そしてこの憂鬱もまた難解なのであった。