ニューハーバー
草野大悟2

 酪農、というなんだか牧歌的な響きに誘われて、避暑気分で北海道に来てしまったことを、小野智子は早くも後悔していた。
 緑色に輝く広大な牧草地、吹き渡る爽やかな風。ここまでは想像どおりだった。
 搾乳機を付けたホルスタイン。
「ずいぶんたくさんいるけど何頭いるの?」
「たぶん、百頭ちょっと」
 えーっ、と大きな声が出た。智子の想定外の多さだった。
 大学二年の夏休み。同じ東南大学文学部、本田和夫の実家。
 早朝から、牛舎の掃除、餌やり、搾乳、原乳の組合への搬送、バター・チーズ・ハムの製造・保存処置・出荷と間段なく続く作業……、もう、うんざり!。
「本田君、私、家に帰るから」
「えっ、もう帰るの? まだ三日目じゃない」
 本田が、目を丸くして言った。
「正直、私には酪農のお手伝い無理」
「そうかぁ。無理かぁ。うーん。じゃ、あと一日だけ、一日だけ泊まりなよ。明日の夜、食事に招待するから。な、なっ」
「食事?」
「うん。食事。イタリア料理」
「イタリア料理? そうねえ……」
 次の夜、本田は、智子を海辺のイタリアンレストランに連れて行った。店の名は『ロゼッタ』。白い漆喰壁に梁の木がむきだしになったシックな雰囲気で、二十テーブルあるフロアは、『予約席』の札のある一席しか空いていない。黒いフォーマルベストに蝶ネクタイのウェイターが、根室湾を一望できるその席に案内した。
「冬になるとここから流氷が見えるんだ」
「へぇー、流氷ねぇ。私一回も見たことない」
 白いコックコートとシェフハットの女が、笑顔を浮かべながらやって来た。
「いらっしゃい。初めまして。和夫がいつもご迷惑をおかけしています。姉の沙羅です」
「初めまして。小野智子です」
 智子は、立ち上がって頭を下げた。
「姉貴ここのオーナーシェフ。イタリアの三つ星レストランで修行した後、五年前にこの店をオープンしたんだ」
 先程のウェイターが、ワンショットグラスに入った赤い酒を、ワゴンにのせて運んで来た。
「食前酒のカンパリでございます」
 真っ白いテーブルクロスの上に赤い酒が置かれる。
「ひとまず、お疲れさん」
「ありがと」
 グラスを合わせる。
 よく冷えた苦甘い酒が口に心地よい。 
前菜の本田夢牧場製カマンベールチーズと生ハムを味わいながら、カンパリを飲む。
「ミネストローネとタリアテッレミートソースでございます」
 智子は、きし麺にミートソースがかかったようなパスタを、フォークとスプーンで器用に口に運んだ。
「おいしー! これ最高!」
「ホタテとタラのアクアパッツアでございます。ワインはソアーヴェにいたしました。副菜はホワイトアスパラとグリーンボールのサラダになります」
 ワイングラスにソアーヴェがゆっくりと注がれた。二人はもう一度グラスを合わせた。バカラのグラスが金属の風鈴のような心地よい音をたてる。
「オーソ・ブッコ。仔牛すね肉の煮込みミラノ風でございます。ワインはバローロクラチコを選ばさせていただきました」
 新しいグラスに注がれた濃いルビー色のワインは、スミレの花の香りがした。重厚で、渋みが舌に残る奥深い味わいだ。
「彼はね、ソムリエの資格を持ってるんだ。だからワイン選びは全部彼に任せてる。僕はワインのことなんかなんにも分からないから。いま食べているこのオーソ・ブッコという料理ね、イタリア語で『空ろな骨』という意味なんだ。詩的だと思わない?」
「詩的? うーん…そうかなあ? それより、ここの料理、ほんとにおいしい! それに、ワインも料理にピッタリ。って私もワインのことはなーんにも分かんないけどね。ふふ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 デザートのズコットジェラートとエスプレッソコーヒーが終わり、食後酒のリモンチェッロを飲んだ。爽やかで甘いレモンの香りの向こうに、カプリ島の真っ青な海中洞窟が見える。
「ほんとに、ほーんとに、おいしかったです。ありがとうございました。いつか私にぜひイタリア料理教えて下さい。私、こんなお店を持つことに決めました。大好きな人と」
 智子は赤い顔をして、少しふらつきながら深々と頭を下げた。
 沙羅は目を細め、「そうなるといいね。イタリア料理をやりたかったらいつでもおいで、私が教えてあげるよ」と、智子の手を握った。
 店を出た。そのまま牧場に帰るには二人とも気持ちが高揚しすぎ
ていた──。
 大学四年の秋、智子は本田の子を身籠もった。「子供は絶対産まないで欲しい」。本田は、堕胎を迫った。卒業と同時に本田は北海道に戻り、それっきりなんの連絡もなかった。本田のことなどどうでも良かった。沙羅には毎年、年賀状と暑中見舞いを出した。必ず、「待ってるよ」、と書いた返事が届いた。

 大学を卒業した智子は、地元の大手イタリアンレストランチェーン店『ブラマソーレ』に就職した。
 半年が過ぎたころ、同じ職場の篠塚大輔から交際を申し込まれた。 篠塚は大学の二年先輩だった。職場懇親会の二次会で、『トリノ』というスナックに行った時、皆がカラオケに夢中になっている中で、隣に座った篠塚は智子の手を握りながらじっと瞳を見つめた。
 大学時代、剣道部の主将をしていた篠塚は、上段から打ち下ろす面を得意としていた。県大会で、個人、団体ダブル優勝を二年連続で達成し、その上長身の美形。女子学生が放っておかなかった。その彼からの申し込みである。智子は、有頂天になった。
 しかし、篠塚と付き合ううちに、彼が酷く愚痴っぽいことが分かってきた。
 小料理屋『火の鳥』で飲んでいたその夜もそうだった。いつも通り始まった愚痴話に、心底うんざりした智子は、「篠塚さん、いいかげん愚痴話やめなよ。くどいんだよね。私、くどい人大嫌いなんだ。もう付き合い辞めることに決めたから。さよなら」
 呆然としている篠塚を残してそそくさと店を出た。
 二か月後の雪の降る夜、その店で、初めてユタカと出会った。智子は、職場の同僚四人と一緒だった。
 店は、カウンター席のみの、客が十人も座れば満席になる程の広さ。おでんと大きなだし巻き卵が名物である。昭和四十年創業で、東京下町育ちの雪子さんが一人で店を切り盛りしている。
 智子たちが上司の悪口で盛り上がっていた時、「ユタカちゃん、久しぶり」、ふらりと入って来た角刈りの男に雪子さんが声をかけた。「おっ!」、かなり酔いが回っているらしい男は、片手をあげて返事し、ふらつきながら智子の隣の席に座った。
 日焼けした顔とガッチリした体に不似合いなチャコールグレイのスーツ。彼の前のカウンターには小さな金魚鉢。朱色のランチュウが一匹、逆さまになって泳いでいる。
「ショウチュウ、と、アレ」怪しい呂律で男が言った。すぐにうす水色のグラスで焼酎のお湯割りが出され、特大のだし巻き卵が続いた。
 男は、智子たちの存在をまったく無視して目の前のランチュウをじっと見つめ、黙って湯気の立っているだし巻き卵をつついた。
だし巻き卵が咀嚼され、ゴクリと嚥下される喉元を、横からこっそりと見る。
 日焼けした喉仏が、ゆっくりと別の生き物のように上下した。
「絵は描いてんの?」
 雪子さんが尋ねた。
── この人が絵を……
 智子は、男の日焼けした横顔をもう一度盗み見た。
それ以来幾度となく『火の鳥』でこの男と出会った。県庁職員、名前は藤本豊。絶対にプロの画家になって、海辺の町で暮らすんだ、と会う度に熱心に語るようになった。
 付き合い始めて二ヶ月後、智子はユタカの絵を見せてもらった。ウルトラマリンのサンドマチエールに、哀しい目をして笑うイルカが描かれていた。
 十畳程のワンルームマンションのあちこちにイルカが泳いでいた。海の中のような部屋で、智子はユタカと初めて抱き合った。
 ユタカは、たまに自分の絵が売れると子供のようにはしゃいだ。その金を持って飲みに出かけ、見ず知らずの客に奢っては、夜遅く上機嫌で帰ってきた。
 気晴らしだ、と競輪や競馬に出かけ、昼間から酒を飲んでは、仕事を休むようになった。
 ユタカの眼や皮膚が徐々に黄色みを帯びてくるのにそう時間はかからなかった。いくら病院に行くように勧めても頑として拒否した。
 結婚四年目の冬、ユタカは自宅マンションで倒れ、救急車で病院に搬送された。それからわずか一週間後にユタカは死んだ。重篤な肝硬変で手の施しようがなかった、と医者がくどいほど説明した。不思議と悲しみはなかった。
 ユタカは、自分の夢の中で溺れ死に、後にはサラ金からの借金五百万円だけが残った。智子は、連帯保証人になっていた。そうたやすく返せる額ではない。いっそのこと破産宣告をしようか、と考えた。行方をくらまそうかとも思った。悩み抜いた末、智子は、ユタカの大学時代の友人で、家にもよく遊びに来ていた東南大学法学部教授の西橋孝一(こういち)に相談してみようと思いたった。
 研究室を訪ねると、西橋は露骨に眉をひそめた。文献や学会誌、専門書などが雑然と積まれている殺風景な部屋だった。智子は、これまでの経緯をかいつまんで説明し、最良の対応策を教えて欲しい、と頭を下げた。
「連帯保証人になっている以上、債務者と同じ責任を負う。従って、彼の借金は君が全額返済しなければならない。それを免れる道は、二つ。一つ目は破産宣告手続きをとること。二つ目が金を稼ぐこと。金は、シャワーロードに転がっているよ。君の体を売ればいい。それが嫌なら僕の女にでもなるかい? 君はとても魅力的な体をしているし、その気になれば金なんかいくらでも稼げるよ」西橋は平然と言い放った。気付くと、手が先に動いていた。パン、という軽い音。手のひらを打った、熱い衝撃。西橋の頬が横に大きく振れ、引きつった左頬に冷たい笑いが浮かんだ。
 研究室から飛び出した。
 キャンパスには、大学生たちが屈託のない笑顔を浮かべながら歩いていた。……絶対に許さない。涙が流れてきた。それを拭いもせず真っ直ぐ前を見つめて歩く。……許すものか。
 学園祭で浮かれている学生たちが、怪訝そうな目を向けてすれ違っていった。
 西橋の言葉に反発するかのように懸命に働いた。会社の事務員、保険の外交員、ガソリンスタンドの従業員、ウエイトレス、清掃員、ホステス、何でもした。昼も夜も働いた。しかし、借金は減るどころか、利子で日毎に膨れ上がるばかりだった。
 クラブ「マリノス」に、シャワーロード一帯で、手広く風俗店を展開する野原が現われるようになったのはそんな時だった。その頃、智子はその店でホステスをしていた。
 彼は、いつも三人の取り巻きに囲まれていた。一晩で、ドンペリやロマネコンティを何本も空にし、支払いは現金できちんと済ませて、迎えのベンツで帰っていった。
 一年が過ぎたころ、野原の口から、高校の同級生であることを告げられた。そうか、とだけ思った。彼のことは記憶になかった。
「トモちゃんいろいろ大変なんだって?」
 酔っていた。これまでのことを誰かに打ち明けたくて仕方のない時だった。ユタカとの出会い、彼の死、今借金が六百万近くまで膨らんでいることを一気に話した。
 野原は、時折小さく頷きながら、黙って話を聞いた。一瞬、借金を全額払ってやろうか、との思いがよぎった。しかし、金で智子を買うような真似だけは決してやってはならない、そう思い直した。
「そうか。本当によく頑張ってきたね。ここではなんだから、明日にでも会社においでよ。詳しい話をしよう」
 翌日の午後、智子は野原の会社を訪ねた。会社は東海県随一の歓楽街、シャワーロードの中心にあった。
 社長室の黒い革張りの椅子に深々と座った野原は、「昨日話してたトモちゃんの借金、もしよければ、僕が業者と交渉して、法定利息内で返済しとこうか? 僕への返済は、無利子無期限でいいから。それに、どう、僕の所で働いてみる気はない?」と、訊ねた。
「えっ、ホントに? 利子無しでいつ返してもいいんですか? なんでそんなにしてくれるんですか? 本当に夢みたいな話なんですけど。そうまでして頂くことが、なんか気持ち悪い、というか、どうしても腑に落ちないんです」
 野原が、突然大きな声で笑い出した。
「私、何かおかしなこと言いました?」
 智子はムッとして言った。
「いやあ、ごめん、ごめん。トモちゃん、高校の頃と全然変わらないから何か嬉しくなってさ。あの頃から、納得できないことは、徹底して質問してたよね。実はね、トモちゃん、僕とユタカは大学の同級生なんだ。ユタカとは本当にウマが合って、どこへ行くにもいつも一緒だった」
 初めて聞く話だった。
「でね、僕、大学を二年で中退したのね。当時県庁に勤めていた親父が心筋梗塞で急逝してさ、お袋も体壊して入院して大学どころではなくなったわけ。その時ね、ユタカが、お見舞い、と言って毎月二万円を持ってきてくれたんだ。家庭教師のバイトで稼いだ金を、お袋が亡くなるまで二年間も。心苦しくて何度も断ったんだけど、僕の家の実情をよく知ってるユタカは、いいからいいから、そう言ってお見舞いを続けてくれた。食うや食わずの生活をしていた僕とお袋にとって、それがどんなにありがたかったか」
 智子の全く知らないユタカがいた。
「僕は、昼間はファミレスのウェイター、夜はフリーの客引きなどをしながらお金を少しずつ貯めた。その金と、売りに出して三年目でやっと買い手が付いた実家を売った金を元手に、ソープランドのオーナーになった。ほら、シャワーロードの真ん中にあるあのニューハーバーがそうだ。事業が軌道に乗ってきて、ユタカに彼がくれた見舞金を返済しようとしたけど、彼は頑として受け取らなかった。それでね、僕は、個展を見に行っては、彼の油絵を買ってたんだ。画廊のオーナーには偽名を告げてね。今回のことは、ユタカへのお礼のつもりだよ」
 智子がふーっ、と大きく息をはいた。
「そう……だったんですか…。初めて聞きました。あの人なんにも言わなかったんですもの。借金とお仕事のことなんですけど、そのとおりお願いしていいですか? お金は、一日でも早く返します。ですから……ですから、私、ソープランドで働きます。よろしくお願いします」
 思い切って言って頭を下げた。
 野原は目を丸くして智子を見つめた。まさかソープで働くと言い出すとは考えもしなかった。
 黒目の大きな二重瞼の瞳が、野原をじっと見つめている。
「トモちゃん、それはだめだ。僕の所で働かないか、とは言ったけど、ソープだけはだめだ。第一、ソープの仕事ってどんなことやるのか知って言ってるの?」
「ええ、大体のところは」
「大変だよ実際。だめだよ、ソープは」
「いいえ、やります! やらせて下さい! お金早く返したいんです。そして、イタリアンレストランをやりたいんです」
「うーん……」
 野原は眉間に皺を寄せ、腕組みをしたまま黙り込んだ。
「できれば店のシステム教えて頂けますか?」
「えっ、システム?」
「ええ、時給とか勤務体制とか」
「うーん、でもなあ……。トモちゃん、ソープはほんと辞めたがいいって」
「大丈夫です! 私やれます!」 
 一旦こうと決めたら、頑ななまでにそれをやり遂げようとする。そんな所も学生時代と全く変わっていない。野原は、大きなため息をついて、しぶしぶ説明を始めた。
 どうしてもソープで働くというなら、経営している十店舗の中で、一番客筋の良いニューハーバーがいい。
 ニューハーバーには全部で八人の女の子がいる。そのうち三人は午前九時から午後四時まで働く『早朝』。残り五人が午後四時から翌日午前二時までの『通常』。
 入浴料は八千円で、これは全額店側の取り分。客から直接受け取る一万二千円のサービス料から、個室使用料、タオル代、ローション代、ドリンク代などを差し引き、客一人につき実質八千円位が女の子たちに入る。
 多い時に一日十人位、少ない時で三人位、平均すると五人位の客を相手にし、一日四万円程度が女の子たちの収入になる。
 智子は真剣にその説明に聞き入っていた。
 野原はもう一度訊ねた。
「トモちゃん、どうしてもやる? ホステスとか事務員じゃだめなの?」
「そんなんじゃ何年たっても借金は返せません。大丈夫です。私頑張ります。野原さんにお金を返すまで絶対に辞めません」
 形だけだから、と野原が差し出した借用書の借用人欄に名前を書いた。保証人になってくれそうな人物はいない。考え込んでいると、保証人欄は空欄でいいから、野原が脱力感を滲ませた小さな声で言った。
 うすっぺらな紙だった。『借用書』、と不動文字で印刷された三枚綴りの一枚を持って家に帰った。これまでのモヤモヤが、いっぺんに消し飛んだような気持ちになった。

 智子初出勤の前夜、野原は、見知らぬ男に抱かれている智子の姿を思い浮かべ、一睡もできなかった。
 翌日、ニューハーバーに智子が出勤すると、そこにはもう、目を赤くした野原がいた。
 ソープにはいろんな客が来る。SM好きの客もいる。野原は、智子の初めての客がどういう人物か心配でたまらなかった。社長室にいても仕事が手に付かない。それで店に出向いて、受付の男に、「智子には筋のいい客を必ずつけろ」と、厳重に言い渡した。
 野原がこれほどまでに智子を好きになったのには、理由がある。それは高校時代まで遡る。
県下随一の進学校である緑が丘高校に入学した野原は、当然のように、空手部に入部した。四歳の頃から、父親と一緒に極真空手を習っていた。全国大会で優勝したことも何度かある。
 入部三ヶ月目に百人組み手をやり遂げた。ふらつく足で、道場に隣接する体育館内のシャワールームにやっとたどり着いた。道着を脱ぎかけてシャワールームを見ると、もう誰かがシャワーを浴びていた。意識朦朧としていた野原には、裸の後ろ姿がぼんやりと見えただけだった。目をこすって見て仰天した。女だった。後ろ姿にしばらく見とれていた。水着の跡が妙に艶めかしい。
 ショートカットの髪を洗いながらその子はゆっくりとシャワーを浴びていた。野原は、初めて見る女の裸を前に、ただ呆然と佇んでいた。
 その時、シャワーのコックを締め、横にかけてあったタオルを胸から巻いてその子が振り返った。目が合った。「あっ!」、目と口を大きく開けて短く叫んだ。それが智子だった。水泳部の練習が終わって、シャワーを浴びていたのだった。野原は、シャワールームの男子用と女子用を完全に間違えてしまっていた。
 智子は、それ以上なんにも言わず、にっこり笑いかけて野原の横をすり抜け、更衣室に消えていった。
 その後、野原は、なんども智子に手紙を書いた。なんどもメールを作ったし、なんども智子の家の前まで行った。しかし、手紙が投函されることも、メールが送信されることも、智子の家の呼び鈴が押されることも、なかった。智子が藤本豊と結婚する、と聞いた時は雷に打たれたようなショックを受けた。

 腰までスリットの入った濃紺のチャイナドレスに着替えて控室に行った。
 控室の八畳和室では、同じ衣装を着た女が週刊誌を読んでいた。
「あのう、初めまして。藤本智子と言います。今日からここでお世話になります。よろしくお願いします」
女は週刊誌から目を上げて、「あっ、高木フサ子です。よろしくね」と、人なつっこい笑顔を浮かべた。
「ユリさん、ご指名のお客さんだよ」
 受付の男が、フサ子を呼びに来た。
「あ、あたし、源氏名はユリっていうんだ」
 フサ子はそう言って控室を出て行った。
 一人になった智子は、フサ子が置いていった女性週刊誌を手に取った。しばらくそれに見入っていると、部屋の襖が開いた。
「ランさん、お客さんです。お願いします」呼び出しがかかった。
 客待合室に行くと学生風の男がいた。
「ランです。よろしくお願いします」
 研修で教わったとおり、客の前に正座し、お辞儀をしながら言う。 男は、眼鏡の奥からおどおどした視線を送ってきた。
「こちらへどうぞ」
 立ち上がって声を掛けると、男はソファーから立ち上がり、後をついてきた。
 智子は、あてがわれている個室のドアを開けて中に入った。男も黙ったまま中に入った。緊張している様子がありありと見て取れる。
 浴槽に湯を張りながら、ゆっくりと服を脱いだ。男も服を脱ぐ。
「ラ、ランさんはスタイルいいですね」
 男が遠慮がちに言った。
「ありがとうございます。ずっと、水泳やってたんです。お客さん、ここ初めてですか?」
「あ、はい。っていうか、ソープ初めてで……」
「そうですか。実は私も初めてです」
「えっ⁉」
 智子のソープ嬢初日はこのようにして始まった。

 三年前、五店舗目のソープ「シャトー」をオープンさせて、丁度一週間目の初夏だった。朝から、湿気をたっぷり含んだ、押しつぶすような暑さが続いていた。
「社長を出せ!」
店の受付の方から怒鳴り声が響いてきた。
 野原は、控室を出て受付までゆっくりと歩いた。そこには、全身黒ずくめのスーツに身を包んだ若い男がいた。
 男は、野原を睨み付けながらスーツの上着右ポケットに手を入れた。
「てめぇ、うちに挨拶もなしに、調子こいてんじゃねえぞ!」
 男がいきなり右手を跳ね上げた。その手に握られたカミソリが野原の左頬を切り裂いた。左の口角から頬骨まで白い筋がはしった。そこから血がしたたり落ちてくるのに、そう時間はかからなかった。
 野原の油断だった。
 野原は左手で左頬を押さえた。指の間から血が流れる。女の子がタオルを持って走って来た。受付の男が一一○番した。
 男は、右手にカミソリを持ったまま野原に迫ってきた。野原の目がカッと見開かれた。
「てめぇー、殺してやる!」
「やってみろ」
 野原は、落ち着き払って言った。
「ヤロー!」男が怒声をあげて、首筋を狙ってカミソリを振り下ろす。野原の体が右足を軸にしてクルリと回転した。男は、目標を失って前のめりに倒れようとした。
「キェー!」
 怪鳥のような声が響く。野原の左足の爪先が、男の下顎すれすれのところで止まっていた。男は尻餅をついて後退った。
「どうした、もう終わりか? 首筋はいつでも空いているぞ」
 野原は、息ひとつ乱していない。
 男がノロノロと身構えた。カミソリを持つ右手が震えている。
「死ねぇー! 死ね、死ね、死ねぇー!」
 男が大声で叫びながらカミソリを振り回す。野原は、紙一重のところでそれを躱し続けた。男の息が荒くなり、次第に顔色が青白くなっていく。やがて男は、全ての力を使い果たしかのように、ぐったりとその場に座り込んだ。肩で荒い息をしている。野原を睨み付けてはいるが、その目にはもう眼光の鋭さは微塵も残ってはいない。
 野原がゆったりとした口調で訊ねた。
「おい、おまえ、どこの者(もん)だ」
 男は、黙ったまま野原を睨み付けていた。
「キィエーッ!」
 ふたたび怪鳥が鳴いた。
 男の頭上から左踵落としが放たれた。
「ヒッ!」。男が首を縮めた。股間から黄色い液体が流れ出た。
 野原の左踵は、男の頭を打ち砕く寸前でピタリと止まっていた。 男がへなへなと仰向けに倒れ込んだ。その時、けたたましいサイレンが響き、赤色灯を回転させた捜査車両とパトカーが何台も到着した。
 男は、その場で殺人未遂の準現行犯として逮捕された。田桜組の若衆だった。
 野原はそれ以降、会社に防弾チョッキを備え付けるようになった。
「次はチャカでくるぞ。用心しろ。この防弾チョッキはトカレフでも貫通できない」そう言って山口源蔵が用立ててくれた物だった。
 山口は、組員三百人を抱える暴力団山口興業の組長である。野原は、ニューハーバーの経営を引き継いだ際に、山口には何度も会って、彼らのシマ内で商売をするために必要なショバ代を納めてきた。
 山口にとって、県内で多くの風俗店を経営する野原は重要な金づるだ。山口興業のシノギのうち、約三割が野原からのショバ代で占められている。野原に死なれれば、その貴重な財源が断たれることになる。へたをすれば山口興業の屋台骨さえ揺らぎかねない。野原を死なすわけにはいかない。
 山口は、野原の身辺ガードの責任者に若頭の結城を当てた。
 結城は感情をまったく表に出さず、いつの間にか標的の陰に入り込み、殺す。しかも証拠ひとつ残さず。
 山口は、常時三人で野原をガードするように結城に命じ、人選は任せた。結城は、ただ、「分かりました」とだけ応えた。無表情の顔に光る双眸が、底知れぬ闇を湛えてガラスのように光っていた。
 若頭補佐の岩野を始め、舎弟や若衆から厳選された九人は、結城の率いる武闘集団の主要メンバーだった。各人がそれぞれ、素手で相手を殺せる力を持っている。
 これまで結城の下で仕事をやってきた彼らは、やり方を熟知していた。仕事をうまくこなしたら金と女を与える。しくじったら、両手首を切り落とし、顔を潰してコンクリート詰めにし、海に沈める。指掌紋やG資料登載の顔写真から身元が割れないための措置だ。
 泣き叫び命乞いする部下や田桜組組員たちを、結城は、眉一つ動かさずに海に沈めた。
 結城のやることに間違いはなかった。彼に任せておけば、知らないうちに事は終わっていた。結城は無表情で、「親父、終わりました」とだけ報告した。

 野原は、自身が経営する二十近い店ではなく、クラブ「マリノス」に足繁く通った。そして、必ず、トモというホステスを指名した。
 いつものように、店にスローバラードが流れ、客たちがホステスと踊り始める。
「結城さん、どうですか、トモちゃんと踊ってみませんか? たまには息抜きして下さい」
結城は頷くと、トモを連れてフロアに進み、スローバラードでチークを踊った。小柄なトモの腰がほどよくくびれ、乳房が意外と弾力をもっていることに、結城は内心驚いていた。野原は、ぼんやりと二人を眺めていた。不意に、裸で絡み合う二人の姿が浮かび、野原をあわてさせた。
 智子は、初めて踊る長身のこの男が、贅肉ひとつない鋼のような体をしていることに、体を併せてみて気づいた。
 男は、智子に言葉をかけるわけでもなく、ただ、右手を腰に回し、左手で智子の右手を軽く握って、チークダンスを続けた。智子は、男の胸に顔をあずけた。男の胸元から雄の匂いがした。智子の鼻腔をくすぐるその匂いは、智子の雌を湿らせ、瞳を潤ませた。
 その時、ぐっ、と男が智子の腰を引き寄せた。男の太股が智子の両足を割り、その部分を刺激した。
「あっ……」
 思わず声を漏らした。男を見上げると、無表情のまま、周りで踊っている多くのカップルに目を配っている。
 曲が終わった。智子は、ふらつきながら席に戻った。
「トモちゃん、酔った? 大丈夫かい?」
 野原が訊ねた。
「ええ、大丈夫です。ちょっと化粧室に行ってきます。ごめんなさい」
 席を外して化粧室に向かう。ドアを開けると同時に男が入って来て、智子の口を塞いだ。先程の男だった……。
 この夜から、智子の体に男が住みついた。男の名前は結城といった。後になって野原が教えてくれた。
 結城は、初めて会ったときと同じように、いつも無表情だった。他の男たちがドンペリやロマネコンティを飲むのを、暗い目をして眺めていた。
 結城の中の雄が智子の中の雌を目覚めさせた。セックスのとき智子は一匹の雌になり、叫び、求め、真っ白になって果てた。
 結城の体には多くの古傷があった。一度その傷跡について訊ねると、彼は黙ったまま智子の乳首を指ではじいた。結城は、セックスの後、無表情な黒目がちの目で智子の瞳を見つめることがあった。どこまでも黒い瞳の中に、智子は吸い込まれていった。

 そのころ西橋は、東海中央警察署で刑事一課員の取調べを受けていた。わずか三十歳で法学部教授になっている俊才で、将来、学部長どころか学長間違いなし、と言われる程の男である。取調べには、経験豊富な山下警部補が当たった。
 西橋は、逮捕以来一貫して、合意の上だった、と犯意を否認した。山下は、その供述を無理に否定するような取調べはしなかった。西橋の言うことを確実に聞き取って、調書化していった。そのことがかえって西橋を不安にした。
取調べは、午前中に三時間、昼食休憩をはさんで午後三時間行われた。西橋は、犯意を徹底して否認し続け、逮捕翌々日に、身柄付きで東海地方検察庁に送致された。
 担当の検事は、西橋とそう年も違わないような柔和な感じのする男だった。
 供述拒否権及び弁護士選任権を型どおり告げたのち、検事は調べを開始した。
「西橋さん、警察の調べによると合意の上だった、となってるけど、ほんと、そうなの?」
「ええ、間違いありません」
「ふーん、合意の上ねぇ」
「酔っ払った彼女をタクシーで送って帰る途中、彼女が誘ったんです」
「彼女が……ですか?」
「そうです。彼女はなんと言っているんですか?」
 検事は、それには応えず、以後の状況を詳しく取調べた後、
「口述(くじゆつ)」と、検察事務官に告げて立ち上がった。
「私は、東南大学法学部教授の職にある者です。本年十月二十日午後十一時頃、東海市内のラブホテル『ムーン』において、私のゼミの四年生遠山渚を、コンパの席で泥酔させた上、強いて姦淫に及んだとして逮捕されましたが、そのときの状況について申し上げます」
 検事の口から流れるように語られる取調べ内容を、検察事務官がブラインドタッチでパソコンに打ち込んでいく。
「以上申し上げましたとおり、私と遠山渚との間で行われた性交は、合意の上でのことであり、泥酔させた上、強いて姦淫に及んだということは、絶対にありません」
 検事が口述を終えた。
「西橋さん、これから調書を読みますので、違っているところや変更箇所があれば遠慮なく言って下さい」
被疑者供述調書が読まれていった。調書は、西橋の身上関係調書と被疑事実関係調書の二通が作成されていた。
 西橋は、被疑事実に関する調書のうち、具体的な性交場面の部分を、あくまで、遠山渚の方から積極的に要求してきた、とのニュアンスが強く伝わるように、五カ所の訂正を申し出た。
 検事はそれらを訂正し、「これでいいですか?」と、一つ一つ確認を取り、調書作成を終えた。訂正箇所への指印、『上記のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した』との奥書の下に西橋の署名指印を求め、調書を締めた。
「西橋さん、今日はこれで終わります。ご苦労さまでした」
 検事は笑顔で西橋にそう告げた。
 西橋は再び手錠をかけられ、三人の警察官に護送されて東海中央警察署の留置場に戻った。
 第一回目の勾留延長期間に入ると、山下警部補は次々と物証を出してきた。
 事件当日、渚が着ていたチュニックやレギンス、ショーツが引き裂かれた状態で呈示され、引きちぎられたブラジャーも呈示された。
 西橋が遠山渚を強姦したとされるラブホテルの検証調書も、正確さを極めていた。
「西橋さん、被害者のチュニック、レギンス、ショーツみんなこんなに裂けてますよね。ほら、ブラジャーも引きちぎられている。これでも、合意の上だった、と言うんですか? 被害者が自分で引き裂いた、とでも言うんですか? えっ! どうなんです!」
「あの時、服も下着もみんな引き裂いて、とあの子が頼んだからそうしたんです。強姦みたいに乱暴にして、あの子がそう頼んだんです! 僕が無理矢理やったんじゃない! あの子が頼んだんです!」
「まぁ、いいでしょう。それじゃ、セックスした時の状況を具体的に話してもらえますか? まず、コンドームはつけていませんよね? 合意のうえなら普通つけるんじゃないですか?」
「それは、あの子が、『今日は大丈夫な日だから』と言ったからです。だからつけなかった」
「それで彼女の膣内にあなたの精液が入った。DNA鑑定の結果、あなたの精液であることはほぼ間違いない」
「僕はセックスしたこと自体を認めてないわけじゃない! あの子とは確かにセックスをしました! 膣内に射精しました! そのことは間違いありません!」
「まぁまぁ、西橋さん落ち着いて。落ち着いて下さい」
 勾留期間が更に十日間延長された。勾留延長七日目、山下が言った。
「西橋さん、今日はいいものをお見せしましょう。おい、あれ持ってこい」
 山下は、立会の刑事にそう命じた。
 テレビとDVDレコーダーが取調室に運ばれてきた。刑事がそれらをセットした。
「いいですか? よーくご覧下さい」
スイッチが入れられた。
画面では、男が、抵抗する女のチュニックやレギンスを引き裂き、全裸にしていた。白黒映像のそれは、決して画質がいいとはいえなかったが、女が遠山渚であり、男が西橋であることを判別するには十分すぎるほどだった。
 泣き叫び、必死の形相で抵抗する渚を、薄笑いを浮かべた西橋が犯していた。
「西橋さん、どうです? これでも、『合意の上だった』、そうおっしゃいますか?」
 穏やかな口調の裏に山下の絶対の自信が窺えた。
西橋は、唇を噛みしめ山下を睨み付けた。
「僕は認めない! こんなDVDなんか絶対に認めない! 彼女が頼んだんだ! 彼女の望みどおりにしただけだ!」
「西橋先生、認めない認めないって言ってもねぇ。こうまではっきり映っていちゃどうしようもないでしょ。どうです、もう、そろそろ、本当のことを言いましょうか?」
 西橋がガックリと肩を落とした。膝を掴んだ両手に力が込められ、小刻みに震えている。
 翌日の新聞には、
  東南大教授性的暴行の事実を認める
との見だしが大きくおどっていた。
 その後、西橋は拘置所に送られた。大学から懲戒免職の処分が下され、同時に妻からも離婚届を突きつけられて同意した。
 地裁で懲役三年の実刑判決を言い渡された西橋は、即刻控訴した。が、棄却され、これを不服として最高裁に上告。再び棄却されて刑が確定した。

 それから二年後のクリスマスイブの夜、生理で店を休んでいた智子のアパートに、シャンペンとケーキを持った若い女の姿があった。
 帰国の挨拶がてら智子を訪問したのだった。裁判の後、大学を卒業して渡米し、ニューヨークで働きながら演劇の勉強をしていた、という。
「智子さん、あの時はほんとうまくいったね」
 遠山渚が言った。
「そうね。でも、DVDがあるって聞いた時は、正直、ヤバイ! と思ったわよ」
「そうそう、私も。結果的には良い方にいったけど」
 二人は微笑んでグラスを合わせた。
 西橋に侮蔑の言葉を浴びせかけられ、研究室を飛び出した智子は、東南大学学園祭の屋外ステージで、主婦を演じていた遠山渚を偶然見かけた。
 その演劇は、夫の浮気を知った主婦が、相手の女と自分の夫を刺し殺し投身自殺をとげる、といったよくある筋書きだった。
 主婦役を演じていた渚に妙に惹かれるものを感じた。終了後、校舎内に設けられた楽屋に渚を訪ねた。メイクを落としてもくっきりした目鼻立ちをしている。智子は、渚を大学近くの喫茶店に誘った。
「今日のあなたの演技は素晴らしかった」、そう言うと、渚は嬉しそうに笑った。
 その後何度か会ううちに、渚が西橋のゼミをとっていることが分かった。智子は、ある計画を持ちかけた。
 黙って話を聞いていた渚は、「それだけやって三百万ですか? 命がけでやるんですからせめて五百万になりません?」智子の瞳を真っ直ぐ見つめて言った。強い光を放つ瞳が彼女の意志の強さを物語っている。
 智子は、その申し出を受けた。借金返済とイタリアンレストランオープンのための稼ぎを使うことは、身を切られるように痛かった。しかし、あの屈辱を晴らすことができるなら安いものだ。そう割り切った。こうして二人は、手を組んだ。
 西橋は大学を首になり、妻にも去られた。刑務所に入り、出所後は所在不明となった。
「時々は遊びにおいでよ」
「ええ。それじゃ、また」
 渚は、丁寧にお辞儀をして帰っていった。
それから四ヶ月後、智子は借金を全額返済し終えた。
「よく頑張った。これはもう不要だ」
 野原は、智子の目の前で借用書を破り捨てた。
 智子は、野原の会社を出た。野原は黙ったまま、弾むような足どりで去っていく後ろ姿をただ見つめていた。ふいにあの時の裸が浮かんだ。「智子、行くな!」大声で叫ぼうとした。声が喉の奥で萎縮したようになって出てこない。智子の姿がぐにゃりと歪み、消えた。

「野原さん、結城と智子がいなくなった。あんた行く先知らねぇか?」山口からの電話だった。
「えっ! 本当ですか?」
「あゝ。俺も信じられない。あの結城が失踪するなんて。野原さん、田桜があいつを追っている。俺は田桜にあいつを殺させたくはない。せめて自分の手で殺してやりたい」
 野原は会社を飛び出した。行く当てなどなかった。東海道新幹線乗降口、バスターミナルなどで、二人の風体を告げ、闇雲に職員に聞いて回った。
 なんの手掛かりも得られず自宅のマンションに帰った時、携帯が鳴った。
「山口だ。野原さん、あの二人どうやら北海道に飛んだらしい。うちの若い者(もん)が東海空港の職員から聞いてきた。写真を見せたら、女の方はどうか分からないが、男は間違いない、そう断言したそうだ」
「智子はどうなります?」
「俺の所が先に見つけりゃ大丈夫だ。しかし、田桜の所なら間違いなく殺(や)られる」
 
 二人の行方は杳として知れなかった。
 山口は、北海道を仕切る同じ天空会系列の暴力団、海童組にも二人の探索を頼んだ。
「兄弟、見つかりましたよ」との電話が組長の海童猛からあったのは、三ヶ月後だった。
「おお。田桜はまだ見つけてねえんだな?」
「ええ、まだ気づいていないようです」
「そうか、よかった。ところで二人はどこにいたんだ?」
「中標津にある『リモン』というイタリアンレストランです」
「イタリアンレストラン? あの結城がか? 信じられん」
「ええ、二人とも厨房で働いていました。どうしますか?」
「無断で組を抜けたんだ。絶縁状だけじゃ示しがつかねぇ。結城には死んで貰うしかねぇだろう。女は連れて帰る。うちの者を二十人ほどそちらへ向かわせる。結城をやるにはそれっぽちの人数では足りないかもしれんが」
「たった一人に二十人ですか?」
「そうだ。うちの者がそっちに着くまで見張りを頼む」
「分かりました。なんならうちで殺(や)りましょうか?」
「いや、おまえの所の若い衆をむざむざ死なせるわけにはいかねぇ」
「そうですか。助っ人が必要なときはいつでも言って下さい」
 結城の傘下にいた武闘集団の中でも、最強と怖れられている精鋭二十人が、岩野の指揮で中標津のいくつかのホテルに分散して入った。
「二人のヤサは、店から車で十分ほどのコアマンション最上階一○一二号室だ。林という偽名を使っている。殺るのは、二人がまだ仕事に行っていない午前中の早い時間がいい」、海童組事務所を訪ねた岩野に、海童が言った。
 二日後の水曜日午前九時、クロワシ運送の小型トラックがコアマンション前に止まった。空色の制服に身を包んだ四人が降りた。
「お早うございます。林さんにお荷物です」、一人がエントランスのインターホンごしに言った。「はーい、今開けます」女の声がして、カチャとロックが解除された。
 四人は、冷蔵庫ほどの大きさの荷物をキャリヤーに乗せ、エレベーターに乗った。同じ時間、マンション外壁に四カ所設置されている非常階段を、男たちが駆け上がっていた。
 十階に着いた。一○一二号室のインターホンを押す。「はーい」先程と同じ女の声がして玄関ドアが開いた。ドアについたチェーンロックを切って中に入った。四人は顔を見合わせた。女しかいない。他の者たちも見張り役を残して中に入り、3LDKの部屋を徹底的に探した。
「兄貴、結城がいません」
「探せ! 探し出せ!」、岩野が怒鳴ったのと同時だった。背後で低くくぐもった笑い声がした。振り返ると結城がいた。クロワシ運送の制服に身を包み、マスクを付け、帽子を目深に被って。
 拳銃を取り出そうとした瞬間、岩野はその場に崩れ落ちた。他の組員たちが一斉に拳銃を放った。プシュップシュッ、銃声があちこちから響いた。結城は銃声の間を風のように動いた。風が吹き去った後には精鋭逹が倒れていた。
 結城が岩野に近づき、背中に活を入れた。う〜ん、と声がして岩野が目覚めた。
「岩野、俺を殺しに来たんだろうが難しいようだな」
 大きな黒目が岩野を見つめた。岩野はその目に魂を吸い取られたかのように、こくん、と頷いた。
「よし。親父に、迷惑をかけたと伝えろ。それに、智子を野原の所へ連れて行け。田桜の奴らに見つかるんじゃないぞ、いいな」
 抑揚の全くない低い声で結城は言った。
 運び入れた荷物の中には、鉞、分厚い板、ハンマーそれにブルーシートが入っていた。
 ブルーシートの上に板が置かれた。結城は黙って左腕を乗せ、岩野を見て頷いた。手首をめがけ岩野が思い切り鉞を振り下ろした。 ドン、と大きな音がして左手首が腕から外れた。「次は右だ」、顔色一つ変えず結城は岩野を見た。岩野は、言われるがまま、右手首に鉞を振り下ろした。
 切り離された右手首と左手首が、ブルーシートの上で寄り添うように並んだ。両手首から夥しい血が流れる。
「岩野、血を床に流すな! 後は、岩野、お前に任せたぞ。智子、こいつらと一緒に野原の所に帰れ、いいな」、結城が平然と言った。
 智子は、結城を見た。初めて見る朗らかな笑顔があった。
 この人は、死にたかったんだ、きっと。
「俺は、ガキの頃から痛みを感じないんだ」という結城の言葉が、聞こえてきたような気がした。
 顔を潰された両手首のない男の死体が上がったのは、その年の冬だった。根室沖で、タラバガニ底引き網漁をしていた漁船がそれを引き上げた。
 道警は、司法解剖を行い、歯形や血液型、DNA等を徹底して調べた。しかし、それらはすべて徒労に終わった。懸命の捜査にもかかわらず、被害者の人定も被疑者も分からないまま、この事件は次第に人々の記憶から消えていった。

 函館空港で、「トイレに行く」と偽って岩野たちを撒き、その足で中標津に飛んだ。空港に降り立った智子は、迷うことなくイタリアンレストラン『ロゼッタ』に向かっていた。
「野原の所へ帰れ」、そう結城は言った。しかし、結城に身も心も溺れていた自分が、今さら帰れるものか。
 結城の最初で最期の思いやりを智子は恨んだ。
 沙羅には、携帯で連絡は入れておいた。
「おいで、待ってる」とだけ沙羅は応えた。
 雇ってもらえるかどうか分からない。イタリア料理を教えてもらえる保証もどこにもない。根室に向かう深夜高速バスに揺られながら、智子は今さらのように不安に襲われていた。
「おい、トモ、らしくねぇぞ」
 暗い海から懐かしい声が聞こえた。
 智子の寝顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。


散文(批評随筆小説等) ニューハーバー Copyright 草野大悟2 2014-11-21 20:24:26
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