駈けていった
岡部淳太郎

あなたの子供は駈けていきました
あなたの急を知らせに
道の向こうの
そのまた向こうまで
私が知らない間に
他の多くの大人たちが
それぞれの世界の片隅で
何も変えられないでいる間に
あなたの子供は駈けていきました

私は殴ります
空気を殴り
飼い主を引っ張る犬どもを殴り
私の太った腹を殴り

あなたは駈けていきました
誰もが急がなければならないことがあるし
ゆっくり行けば良いこともある
たとえば朝の天気予報の下
近所のバス停まで駈けてゆき
夕暮の雨を降らすことのなかった雲の下
会社から疲れてゆっくり歩き
そんなそれぞれの場面で
ふさわしい速度で行くのが普通なのに
それなのにあなたは
ひたすら速度を上げて
ひたすらの思いのままに
あなたは駈けていきました

ああ
車のエンジン音がやかましい
ああ
飼い馴らされていない犬の声がやかましい

私は殴ります
雨を殴り
車のボディを殴り
私の心を殴り

私は駈けていくことが出来ませんでした
その時にはもう
あなたは駈けていってしまった後だったので
私はバスに乗り
いらいらしながら揺られていたので
私は駈けていくことが出来ませんでした

ああ
違法駐車が目障りだ
ああ
犬どもの伸び上がった尻尾が目障りだ

私は殴ります
窓を殴り
壁を殴り
これらに囲まれていたあなたの
終ってしまった人生を殴り
私の人生を殴り

あなたの子供は駈けていきました
そのことによって
大人たちは初めてあなたのことを知りました
そのことによって
大人たちは初めてあなたのことを知らされました
世界のそれぞれの片隅で
間に合わなかった人びとが
大きな遅刻を信じられずに立っていました
あなたの子供は駈けていきました
道の向こうの
そのまた向こうへ
あなたのいない
大きな涙の方へと


自由詩 駈けていった Copyright 岡部淳太郎 2005-01-30 21:29:29
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
3月26日