地の果ての嘆き 『風土記シンボリック』によせて
ハァモニィベル

ここでは、詩作品『風土記シンボリック』(作 地の果ての嘆き)を取り上げて
ごく簡単に作品評を試みる。

(作品のURL:http://mb2.jp/_prs/8435.html#S0

本作品はリズムは良いが語選択に美が不足している。そのため、試作品という印象を受ける。ただ、これはなかなか凝った試作品である、そう思い立ち止まってみた。
詩としてはもっとバラバラか、もっと緊密なほうが――は、私の感覚であるが。
時には、道祖神に誘われて、瞬間瞬間に過ったイメージの旅の
何枚かのスナップショットを順に並べてみるのも悪くないだろう。

まず、王水の権力的イメージが伏線としてある。これは、ノーベル化学賞の金メダルをナチスから隠した逸話を想起させ、それが同時に反骨の伏線にもなっているようだ。
そして、アララト山の「斜面」に漂着し、死に絶えた方舟の中で、「誰か生きてるか?」と声がする(というのは私のイメージ)。ここには、純粋な者が騙されて踊らされた挙句、悲惨に大量死するイメージが漂う。

  >押し黙る木々はきまぐれな季節に縛られ
  >嘘つきの猟師が硝石を舐めた

季節はハロウィン→その原型は《ワイルドハント》( 猟師の1団が天地を駆け抜けていくという西欧の伝承は、更に北欧の《オーディンの渡り》→サンタクロースへ )とつながる。だが、それは即ち風習・制度の提喩であろう。

 ※
 因みに、
「この狩猟団を目にすることは、戦争や疫病といった、大きな災いを呼び込むものだと考えられていた。」
 では、
吹き荒れるワイルドハントに運悪く遭遇した者がどうなったかというと。
《(通常死の運命が待っているのだが)純粋さ、敬意、そして度胸とユーモアが試され、もしそれに合格すれば、その人は靴一杯の黄金か、豊富な食料を持ち帰ることができると言われていた。だが、もしも不合格ならば、恐怖に満ちた夜の旅へ生涯連れまわされることになる。・・・そして、ワイルドハントに命を奪われ、魂が、その後何年もこの軍団と共に空を駆け巡った者は、邪悪な「嘘つき」といわれた》という。
 ※

「硝石を舐める」は、戦さ=戦争のイメージが濃い。硝石丘を彷彿とさせ、ようするに<糞食らえ>ってことかとも思う。

  >明日は小人族の閲兵式    
  >そして来週には台風が来る

どうやら、<受動的に順応したハロウィン糞食らえ、それがやがて戦争を産むんだ>って声が聞こえてきそうだ。
「小人族の閲兵式」や、軍服に下級章を付ける位置である「肋骨」という言葉にも、イメージが一貫して流れている。

 ここで私はタイトルにある「シンボリック」に注目してみる。社会学者H・G・ブルーマーが提唱した<シンボリック相互作用論>をそれは思い出させる。パーソンズ流の現代社会学では、D・ロングがいうように人間を「社会という鋳型に嵌め込まれ、個性や独自性を奪われ、画一化された存在」(「社会化過剰的人間観」)として捉える。しかし、ブルーマーにおいては、人は「自らにとって持つ意味を再構成する可能性を常に秘めた存在」である。
 この詩においては、未だ「世界」を再構成するまでには至らず、未成熟な自動筆記の感を拭えない。だが、構造機能主義社会学から見た「社会化過剰的人間観」そのもののようにすら思える社会の現実の諸相・断面、個々人が受動的に順応する姿に対し、この詩が苦々しく苛立っているのが感じ取れる。
 シンボリック相互作用との絡みでゴッフマンの「ドラマツルギー」を逆用するような『傷口からようこそ』という作品を最近書いたばかりの私としては、作者のその辺りをめぐる視点に興味を覚える。
 こうした現代の問題に通底しつつ、それが予備知識のない人をも撃つような詩、読んで面白く感じるような詩を私は書きたいし、読みたいと思っている。本作品は、そこまでの引力を持つまでに達していないが、視点は開かれており、その点を他と比較して積極的に(わたしは)評価してしまいたいと思う。

 最後に、「道祖神」が傍にあるというアイロニーもついでに深読みしておくと、
外界から来る負の価値を遮る神でありながら、神自身が悪霊だとされて火の中に投げ込まれる祭りもある、そんな境界的・両義的な存在のもつ乾いた悲しみが、ちゃんと風土の中に沈黙したまま在るということなのだろう。
 この詩との対話から、私はそのようなイメージの数々を読んだ。









散文(批評随筆小説等) 地の果ての嘆き 『風土記シンボリック』によせて Copyright ハァモニィベル 2014-10-22 03:51:58
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