風のはじまりをあなたは知っていますか?
木屋 亞万
駅前にはどこもマンションが建っているけれど、彼女が住んでいたマンションも例によって駅のすぐそばにあった。彼女が住んでいた部屋は電車からよく見えたので、電気がついていたら彼女がいるかとか、洗濯物があると仕事が休みかとか、そういうことがすぐにわかった。携帯電話がまだない時代だったので学校の行き帰りに、彼女のマンションを眺めて、寄っていくかどうかを決めた。彼女が部屋にいるときドアは開いていて、私は勝手に部屋に入っても良かった。ほとんどの場合そうだったのだが、体調が悪いときや私の相手をしたくないときには、ただ部屋に入れるだけで、彼女が横になったベッドのそばで本を読んでいても、勝手にカップラーメンを食べていても彼女は何も言わなかった。そしていつの間にか、私もベッドにもたれながら眠ってしまうのだ。そんなとき、ふっと風が起こる気配がして目を開けると、彼女がベッドに座っていてこちらをじっと見ている。目と目があった瞬間に、くしゃりと顔を崩して笑うのだ。その美しい線が鼻に集まっていく崩れ方をみると、このままずっと学校に行かずにここにいられたらいいのにと思うのだった。
私が彼女に会った時から、彼女はすでにほとんど失われていた。外側はうつくしく、みずみずしいのだけれど、その内側はぼろぼろに崩れ落ちて乾ききっていた。そのことを時折、彼女の目が私に訴えかけているように思えるときもあったが、どうすることもできず二人の溜息が部屋で混じり合うだけだった。いろいろな男たちが彼女に何かを吹き込もうと、耳の穴に言葉を囁き込んだり、口を熱くふさいでみたりと、彼女を生命力にあふれさせる努力をしてみたけれど、彼女の内部は死滅しきっていて、何をしてもその荒廃を止めることができなかった。
うつろな目でつくため息が、その部屋で起こる空気の流れだった。ため息をするとしあわせが逃げるという人もいるが、私はそのため息さえ彼女の濃縮された何かを感じ、ため息に満ちた部屋で彼女と静かに過ごせることがうれしかった。彼女がトイレへ歩くとき、小さなキッチンへ行くとき、起こる風がその部屋の数少ない空気の流れだった。彼女が動くたび、部屋に沈んだ彼女の匂いが、巻き上げられる気がした。
ある日いつものように、彼女の部屋でベッドにもたれ、いつものように本を読んでいた。そのとき読んでいたのは、たしかチェーホフの『かもめ』だったように思う。「もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね」そんなセリフを口の中で転がしているうちに眠りに落ちていた。
風が起こる気配がして、夢が終わり、意識が覚めてきていた。彼女の歩く気配がして、それまで部屋に吹いたことのない強い風が吹き抜けた。慌てて目を開くと、風は開け放たれた部屋の入り口から吹いてきていて、全開になった窓へ抜けていた。窓の向こうでは、ベランダの手すりに腰を下ろした彼女がこちらをじっと見つめている。彼女の風に顔が当たって、髪が後ろへなびいていた。目と目があった瞬間に、いつものようにくしゃりと顔を崩して笑った。そして鉄棒でもするように、身体を後ろに倒して見えなくなってしまった。
「風のはじまりをあなたは知っていますか?」
彼女が残したメモにはそのような走り書きがあった。意味はよくわからなかったが、できるなら私はその意味を知りたくはなかった。