1989年のこと  mixi日記より 2010年11月
前田ふむふむ

9・11について
僕は、前にも書いたけれど、9.11は、「A」と比べたら僕にとってそんなに深刻なものではない、といったことがある。新しい何者かが起こりつつあるかも知れないと思ったけれど、世の中はいつまでも不景気で、相も変わらず、世界はアメリカ中心に動いていて、
僕は、淡々と生きていけたように思う。
確かに9.11は大変な出来事だけれど、僕らは精神的にどれだけの影響を受けたのだろうか。確かに受けたが、もはや、ペンを持つことが可能かどうかまで、追い詰められて、いわゆる、自分の確固たる立ち位置が、砂のように崩れるかもしれない深刻さや恐怖にも似た不安は、受けなかったのではないだろうか。逆に、これを契機にして、劇的に全くの新たなる創作の広大な地平が広がったと考える人も、本当はいないのではないだろうか。高名な学者吉本隆明に「無」といわれても、広大な歴史を背負っているその先達に、あがらう確固たるもの(それを超えるもの)を提示できないのだから(できているかも知れないが、僕はそれを読んでいない)、それは、9.11以後において、本質的には、なにも変わっていないという証明にもなるだろうか。



失われた20年
「バブル以後の失われた20年」とよく言われている。
「バブルの時ってそんなに良かったの」と、社会人になったばかりの甥っ子に言われたことがある。その時代以前、
確かに、たくさんの恩恵に浴したことは確かである。だが、多くの歪もあったことも確かである。まるでマス・メディアでは、お題目のように、バブル以前が、最良の価値基準のように言われているが、それは、誤りだろう。
この「バブル以後の失われた20年ー25年」というこの言葉であるが、
本当に、若い人に、このことがわかるのだろうか。なぜなら、彼らは、物ごころついた時から、すでに、不景気な時代に生きていて、それが普通のことであり、バブル以前の好景気を知らないからである。だから、いわば、彼らは、何も失っていないのである。
ただ、「バブル以後の失われた20年」という、失った年寄りの大人がもつ郷愁にも似た価値基準を、若者は、机の上で情報として、(失っていないのに)身体的に相続するのである。




近代と現代
近代と現代を線で引きなさい。という問題がでたら、すぐ、適切に答えられる人が
どれくらいいるだろうか。1945年と答えるだろうか。
日本の歴史の教科書では、それが正解かもしれません。
でも、もう一本、線を引けるように思われます。
それが、1989年のベルリンの壁崩壊と冷戦の終結でしょうか。
現在、ヨーロッパでは、現代史の元年を1989年にしています。
だから、それ以前は、近代ということになるのでしょうか。





1989年
前に書いた「A」のことを書こうと思う。
この年は、劇的であったと思う。とくに、ものを書く仕事の人間にとっては、まるで天地がひっくり返ったような壮絶な出来事があったからだ。(僕は当時、ものは書いていなかったが)東西冷戦の終結。社会主義イデオロギーの決定的な敗北。
僕は、今でもはっきりと脳裏に刻まれている光景がある。
弁舌の通った、べ平連の英雄で、社会主義的な平和主義者の小田実が、その衝撃でなのだろうか、あるテレビの討論会で、まるで怯えた子羊のように、なにも自分の意見が言えず、周りの論者に相槌を打つのが精いっぱいで、挙動不審に陥っていたことがあった。
のちにKGBの問題が明るみになる以前のことである。
また当時、一時的にせよ、多くの社会主義的な論陣を張っていた多くの文化人が、一斉にマスメディアから、いなくなったのである。社会主義が完膚なきまでに否定された瞬間だ。
そういう僕は、冷戦の時代に、どちらかというと、かなり保守的思想の環境にどっぷりとつかっていたが、それでも、当時の日本社会に充満していた、資本主義の諸矛盾に、大きな不満を持っていて、当時のソ連や中国に、ある種の幻想ではあるのだろうが、理想郷のようなものを求めていたことは、確かである。夜になると、よく短波放送で、日本向けの中国の国営放送を聞いて、ワクワクしたこともあったし、時として、社会主義的な本も好んで読んだ。
そんな僕ですら、メディアなどで、1985年ころから、東側の様子が少しおかしいということは、わかっていたが、まさかソ連が崩壊し、冷戦が終わるとは、まったく思ってもいなかったのである。
保守的論陣を張っていた文化人には、まさに天佑のようであっただろう。
その逆に、社会主義的論陣を張っていた文化人、あるいは社会主義的なものに、ある種の共感をもっていた文化人は、言葉を失ったのではないだろうか。
なぜなら、自分の今立っている立ち位置を、自分の意に反して、急激な時代の変化に即応して、再確認して、あるいは、修正をしなければ、先に進むことが出来ないからである。
多くの精神的な静かなる転向が行われていったと僕は、思う。





いろいろと、ここまで書いてきたが、たぶんそんなことはないという人もいるでしょうが、
全く、的が外れているとは、言えないと僕は思う。



最後に、
そこで、大きく話が変わるけれど、僕は、最近、詩の概説書や詩史の本を、読みかえしているのですが、とても、読んでいると勉強になり、知らないことが多いということは、
発見もおおいのだから、とても、心地よい気持ちに浸っているのです。
しかし、そこで、どうしてもわからないことがあるのです。
多くの本には、ある共通の決まりのように、80年代までのことは、詳しく書かかれているのですが、それ以降のことは、(90年以降のことは)、混在していてはっきりと分類できないといことになるらしいのです。
(そうでない本があったら、僕に教えてください。ぜひ、読みたいと思います。)
それでなくても、もやもやしているのに、
現在の詩の先頭に立っているような詩人野村喜和夫の本「現代詩作マニュアル」があるが、戦後の総括という意味であるのだろうが、
「まえがき」があり、読んでいて嫌な気持ちになってきた。
まず、21世紀の気分は、9.11以降改まったとある、グローバリゼーションと反グローバリゼーションの構図が鮮明になったとある。(その通りであると納得する)
そして、バブル崩壊以来の経済低迷から、今までにない時代の閉塞感があらわれていると、
(本当だろうか?今までにない閉塞感などは、いつの時代でもあるのであり、なにと比べているのだろうか。戦争中の閉塞感か、戦後の閉塞感か、冷戦時代の重苦しい閉塞感か。
僕は、それら以上と断言はできないと思うのだけれど)
そして、戦後詩的なものは、遅くても80年代には、役割を終えているとある。(それでは、それに代わるものは、いつから始まったのか、あるいは、いつから始まるのか、著者にも混沌として、わからないらしい。)
そして、とても、奇怪で不可思議な文に出会うのである。
「戦後詩的な闘争の詩学の呪縛から解放されたベテラン詩人から、その闘争の詩学を知らない若手詩人まで」
(変な言葉だ、ベテラン詩人は、いつ呪縛から解放されたのか、そろって皆さんが解放されたなら、その転機となる出来事があったのではないだろうか。
何もなくて、時代を下ったら、丁度、仕事をやり尽くして、解放されたのだろうか。?まるで隠居したようで、まあ、失礼な言葉だし、第一、言葉の呪縛から無縁になったら、そもそも、詩人ではないではないか。)
もっと、不思議なことは、
戦後を俯瞰的に総括する文なのに、1989年の冷戦終結のことは、まったく書かれていないのである。
戦後で最も衝撃的だった出来事が書かれていない。著者はなるべく、触れないようにしているからなのだろうか。不思議だ。


散文(批評随筆小説等) 1989年のこと  mixi日記より 2010年11月 Copyright 前田ふむふむ 2014-10-04 18:27:33
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