傷跡
島中 充

      傷跡               
一八才の少女は右手にカッターを握り、タイルに座り込んでいた。湯気が立ちのぼり、蛇口から湯の落ちる音がうるさかった

四年生の時、体育の授業で一輪車乗りがあった。優しい先生の手に支えられ、ヒョイとまたぐとスルスルと前に進んだ。「上手ねー」と先生にほめられた。ほめられることなどほとんどなかった少女は嬉しかった。一輪車が買って欲しくて仕方なかった。しかし、おかあさんに頼んでも買ってもらえるはずなどなかった。家は貧しかったが、貧しいから買ってもらえないのではない。愛されていないから、可愛くないから、買ってもらえないのだ、と少女は思っていた。四種類のカードを集めると一輪車がもらえる抽選のガムがあった。毎日毎日ガムを買ったが、どうしても最後の一種類が当たらなかった。母の財布からお金を抜いてガムを買った。店員のすきを見て素早くガムをポケットにいれ、店を出た。万引きのそのガムが当りだった。世の中とはそういうものだと少女は思った。
仲間の子供たちに囲まれ少女はサーカス団のようにキャーキャーと乗り廻し、得意だった。そして、路地の溝に落ちた。お母さんに一輪車は取り上げられ、髪の生え際に三センチの傷跡だけが残った。肉の少しもりあがっている傷跡に触れると少女にはうっすらとした高揚感があった。不思議なときめきであった。生きている証のようにさえ思えた。

高校を卒業すると家出同然に大阪にやってきた。居酒屋に住み込みで働き始めた。少女はホールで働いていると、背の低い、若い女子なら誰にでも声をかける男の子に誘われた。その男の子がどんな男か、うすうす分かっていた。みんなから気をつけなさいと注意されていた。好きだったわけではない。ただ男友達がほしかった。誘われればホテルで抱き合う仲になった。好きだったわけではない  ただ抱いて欲しかった。
男は三十分前にホテルで抱いた少女を友達の男に紹介する奴だった。こいつならやらしてくれるぞということだ、少女には判った。好きだったわけではない。ただ 裏切られて悔しかった。悔しくて、殺してやりたいと思った。 「お前はチンシャブのうまいオンナさ」 別れの言葉だった。
 
少女はカッターを握りしめ手首を見ていた。死にたくはない。 手首を湯船に浸けると湯が真っ赤に染まり、 体はだんだん白くなっていくだろう、美しく。愛されることのない醜い私から汚れた赤い血が湯船に広がるだろう、しかし私は死なない、絶対に死なない。少女は思った。愛するのは、世の中ではなく、男や親でもなく、生きる事でもない。私が愛するのは手首に残るリストカットの傷跡になるのだ。 誇らしいタトゥーとして 自分が自分であるための奇妙な拠り所なのだ。死んでいないという、生きている証なのだ。 

カッターを握りしめ 少女はためらっていた。ためらいながら確かめるように額の傷跡に触ってみた。得体のしれない思いが津波のように押し寄せた。かくまっていた過去の悲しい思いに飲み込まれ、耐えてきたもの、我慢してきたものに襲われ、少女は小さく「助けて。」と呻いた。どっと涙があふれ出した。少女は赤子のように声をあげて泣いた。

付記 私の愛する少女は、声をあげて泣いた。もう自殺しないでしょう。作り上げた虚構の中で少女は自殺しませんが、地方から働きに来ていた私の店の少女は、きっちり湯船に、手首を浸け自殺しました。どうして声を出して泣かなかったのでしょう。どうして「助けて」と言わなかったのでしょう。





散文(批評随筆小説等) 傷跡 Copyright 島中 充 2014-09-30 10:39:53
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