弾道(千鳥足で、無闇に。)
ホロウ・シカエルボク
触れるだけで音も無く切れる鮮やかな刃先が咽喉元にあるかのような心境だ、ほら、勘付いているだろう、ただの亀裂だったものが次第に音を立てて崩れていきそうな予感に。デッド・ラインのすぐそばにもうお前は居る、もしかしたら迂闊な片足ぐらいはもう向こう側に踏み込んでいるかもしれないな。冷たい感触が少しずつ近づいてくる、真赤な血が静かに、しかし止めども無く溢れ出してくるのは明日かもしれない。ある種の人間は皆、生きれば生きるほどに冷たい穴ぼこの中に落ち込んでいくような気分になる。人生の数だけ、得たものの数だけ、失ったものの数だけ、深くなっていく穴ぼこの中にさ。厄介なのは、そいつが絶対的なものを孕んでいることさ、その完全な暗闇の中に、存在の説得力とでも呼べそうなものを含んでいやがるのさ。お前はその穴ぼこの気配を時々身近に感じて、そしてその中に落ちていく瞬間のことを考える、俺は悲鳴すら上げないかもしれないと…そこに落ちるのは仕方が無いことなんだとそう考えてしまうのだろう、と。その穴ぼこにはそれだけのヴィジョンを克明に描かせるだけの説得力がある。誰もそこから逃れることは出来ない。手にした物語や、偶然目にしたニュースや、あるいは自分でだらだらと書き連ねたものの中に誰かの死があったとする。そんな時お前はこう考えるのだ―こいつは俺の代わりに死んだのだ、こいつは確実に俺の代わりなのだ―と。お前はいつでも誰かが用意してくれた形代に勝手に自分の命を吹き込んで、様々な様式で冷たくなってもらうのだ。死ななくてもいい。狂ってくれるだけでもいい。狂って、何かとんでもないことをしでかしてくれるだけでも。たとえば誰かを滅茶苦茶に殺してくれたって構わない。それでお前の人生は幾らか報われるだろう。少なくともお前はそう感じているだろう。血色の悪い爪を噛み千切りながら。幾つかの有意義な眠りを放棄した真夜中に親指の付け根で痒い目を擦りながら。鏡を見てみろ、見飽きてるだろうけど。もう一度ちゃんと覗いてみるがいい。ほら、お前の目は歪んでいる。右目と左目が仲違いをしたかのように少し離れている。右目のほうがより強くそのことに意識的であるように見える。そのせいでお前は上手く焦点を合わせることが出来ない、そうだよな?よし、次は鼻を見てみろ、どこかにぶつけたように腫れあがったみたいな段になった鼻筋や、やや右に歪んでいる妙に目立つ鼻を。よし、次は口だ。漢数字の一を毛筆で書いたみたいに、右上がりに歪んだ口を。お前はこの口のせいで最近いろいろと面倒な思いをしているよな?まあ、仕方ない。我慢が出来ないことが美徳だと思っている猿のような連中が、この町には腐るほど居るからな。だけどお前はそうした連中のことが不思議で仕方が無い。そりゃあ、お前自身は見ず知らずの他人が自分のことをどうこう思っているなんて勘違いするようなきちがいではないからさ―少なくともそうした種類のきちがいではないからさ。だからそんなことはいいんだ、取るに足らない連中が大勢居るなんてことは、きっとどこのどんな場所にだって転がっているようなことだからさ。俺が穴ぼこに落ちるときはどんなときだろう、とお前は頻繁に考える。あらゆるそんな瞬間のことをお前はいつでも考え込んできた。ありそうなことも、ありそうにないことも。それは恐怖でもあったし、興味でもあった。生への執着こそ忘れたことは無いけれども、出来ることなら自分の死を見てみたいとお前はいつでもそう考えていた。まだ生きることの何たるかをろくに掴んでもいないころから、お前はそのことについて考え続けてきた。本当にそうするつもりだったのかどうかいまとなっては釈然としないけれど、何時間も自殺ごっこに精を出していた日だってあったよな。小学校の三年生くらいの、おそらくは休みの日の午後だった。あの時家族は皆出はらっていて、家にはお前一人しか居なかった。お前はあらゆる自殺の真似事をしたっけな。そうしてそんな遊びの本質のようなものに思いを馳せ、そんな戯れのせいで本当に死んでしまうような人間だってきっと居るんだろうな、なんて考えたっけな。本当にあの時死ぬつもりがあったのかまるで思い出せない。近頃なぜかそのある日の午後のことが無性に気にかかる。静かな午後だった、本当に静かな午後だったな。まるで誰かの通夜みたいな午後だったさ。夏以外のどこかの季節だ。それは蝉の声が記憶の中に残っては居ないから。それ以上のことは何も思い出せない。ただあの日、自殺ごっこという出来事があったということ以外はさ。小さな音でクラッシュが流れている、小さな音でもクラッシュしている、スピリットは模倣出来ない、いいかい、スピリットは模倣出来ない。生きてるうちに死体になることが出来ないようにさ、それは必ずお前自身の在り方に変換されなければならないんだ、他人の服を着てそれらしく振舞うようなことがしたいだけならここに来な。俺が自分の手で脳天を叩き砕いてやる。お前の脳漿をデザートに食らうのさ、きっと糖分が多めだろうからな。そうして俺は穴ぼこのことを考える。今日は少し長く眠り過ぎたけれどそれ以上のことは何も無かった。