葉leaf




幼い頃、私は自己愛の形をしながら、眩い外界によってひたすら呼ばれていた。私には外界からの呼び声に応えるだけの組織がなかった。私の内部は無垢な光でいっぱいで、何の重さも流れもなく、光は水が凍っていくように硬さを増すばかりだった。自己愛は自然が生み出した有機的な正体不明の植物で、私の輪郭に先立ち私の行為や言葉の輪郭を導くものだった。眩い外界から投擲されるものを黙したまま通過させ、その沈黙から少しずつ編み出されてくる一つの流転する空、次々と模様を変えていく空となり、外界と内側の光を均衡させる輪郭として私の自己愛はあった。

思春期の頃、外界はとたんに複雑な襞を持って私の内部組織に命令を下してきた。私は羞恥の火花を散らし、それは赤面だけでなく、しぐさの硬直であったり、人目のつかない場所への移動であったりしただろう。自己愛は羞恥の火花でもって私から漏れ出ていき、漏れ出た羞恥はいわば自己愛の血液であって、自己愛の傷をふさぐために傷口を固めるものであった。羞恥は私の空間をゆがめ、そのゆがんだ空間は幼い自己愛の空間であって、外界の透明で端正な空間に抵抗する空間としては余りに惰弱で卑屈であり、私の名前は幼い空間の中で自己を指し示すことをためらった。

10代の終わり頃、外界のさらに外界が、それまでの外界を飲みこんで、外界は急に有機的で原始的で暴力的になった。私は自分を飼い馴らしていた共同体の被膜から解き放たれ、内部は限りなく外界へと、灼熱と極寒の入り混じった指先を伸ばし始めた。自己愛はただむき出しの暴力として、外界のむき出しの暴力と硬く接する平面で狂い始めた。そして、暴力同士の衝突により暴力である自己愛は砕け、もはや自己愛は一つの葛藤となり、自己を愛することへの懐疑がそのまま自己を愛することとなった。水のように自然に湧いては外側へと厳しく溢れていた自己愛が、渦を巻き、還流し、ときには枯渇した。

20代の終わり頃、もはや軌道を失った自己愛は、正常な軌道を求めて他者の愛を求めた。ねつ造され、幻視され、飾り立てられた他者の愛を。外界から正確な時計を持ち込みただしく針を刻むため、自己愛はつくりものの愛を求めてはすべてに幻滅した。私はもはや自分を抱きしめるにも抱きしめる腕を失っていたし、抱きしめてくる腕もなかった。私はもはや、ただ欠落したまま外界の生物にまなざしを注ぎ、外界の地理を厳密に研究した。そこで自己愛は、自己だけではなく、外界というこの荒々しい海のような広がりもまた愛という自らの存在の柱を打ち立てる原点となりうることを思い出した。外界には他者を愛し合うという謙虚で光の筋のような連鎖が下生えのように根付いていた。私は自己愛をその限りなく愛しい下生えに捧げた。私は自己を相対的に愛し、他者を相対的に愛し、他者から相対的に愛された。全てが世界を覆い尽くしているこの相対的な下生え、そのつつましやかな植物によって支配されていたのだった。


自由詩Copyright 葉leaf 2014-08-30 08:31:23
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