感性で読みとく現代詩:「夏の光に」
あい

夏の光に

夏がきても病気のように冷たい光はあった。
それはぼくのなかにあった。物のなかにあった。
いたるところにあった。
空気が重くなり、雨がふりはじめた。
子どもたちは手のひらを雨のなかにいれ、雨の冷たさを受けとめた。
モーヴ色の告白からやつれた影があらわれるように、
ぬれている草のなかでじっとしていた、きみの心は。
日がおちてもそこにいた。世のなかの鍵穴から砂がこぼれはじめた。
ぼくはきみの心をつつむきみのからだをみつけた。
雨の匂いをいっぱいふくんだ髪毛をべったりと首に巻きつけた。

岩切正一郎『秋の余白に』より


 タイトルにある「夏の光」とはたぶん二種類の光を指していて、ひとつはさまざまなものに内在する「病気のように冷たい光」、もうひとつは(一般的に「夏の光」としてイメージされる)燦々と降りそそぐ熱い「光」。後者は言及されていませんが、詩の外から舞台を照らすものとして確かに存在しています。たとえば「夏」の部分を他の季節に置きかえることはできません。先述した性質をもつ、二つの異なる光のコントラストによって詩的空間が成立しているからです。内包されるものと外側にあるもの、という対比は後述する「病気のように冷たい光」と「雨」、「心」と「からだ」にも通底していると思います。
 改めて「病気のように冷たい光」とは何でしょうか。「夏がきても〜あった」とあることから、冬に降りそそいでいた光なのかもしれません。そのイメージは研ぎ澄まされた寂しさや孤独、といったところでしょうか。昇華されたその美しい感情はいたるところにみいだされています。もちろん空気を構成する気体の分子にも含まれているのでしょう。やがてその重みに耐えかねるように雨が降ります。感情は感触へと変化して、純粋な子供たちの手のひらで感受されています。
 モーヴ色に咲いた野草の花、憔悴の果ての素朴な愛の告白のようにあらわれた「きみの心」は、沈黙をもって詩的主体に語りかけているように思えます。「日がおちてもそこにいた」のを知っている詩的主体。ことばのない空間を共有しているうちに、ふと未知なる世界への誘いを感じたのでしょう。それからようやく「きみのからだ」をみつけます。「心」を愛するための「からだ」を。そして「病気のように冷たい光」を宿す雨をたくわえた、女性性の象徴である長い髪の毛を首に巻きつける、ということ。まるで首を絞めているようです。この死のイメージはふたつの肉体の交わりの意味を強めると同時に、詩的主体が肉体を超えた寂しさや孤独の共鳴を願っていることも示しているように思えます。


散文(批評随筆小説等) 感性で読みとく現代詩:「夏の光に」 Copyright あい 2014-08-20 16:05:48
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