蠍の火
dopp

彼女は自殺者の顔を石で叩き潰していた。手が付けられない程の怒りようだった。僕としてはおろおろするしかなかった。僕は自殺者の親友だった。彼は言っていた。「僕は全ての為に生きたいんだ。他の全ての命、誰かの為に生きたいんだ。」僕は答えた。「全てって何だい。今まさに存在するものか、それとも過去や未来も含むのかな。仮に君が今死んだとしたら、数え切れない程のバクテリアなんかが生を得るだろうね。それを分かった上で全ての為に生きたいと言うのかな。」彼は答えた。「井戸に落ちた蠍にも救いがある、ということだよね。後から考えればその通りなんだけど、やっぱりすごく悲しいよ。何と言ってもいたちは本当にがっかりしただろうな。走って走って蠍を追いかける位なんだ、きっとすごくお腹が空いてたよ。それでやっと捕まえてさ、だって刺されるかもしれないんだよ、きっとさ、蠍の事を考えてるのも分からない位走ったんだと思うな。すごく怖い真っ黒な目までしてさ、それなのにふっと蠍は落ちていっちゃうんだ。あっ、て。固まるだろうな。井戸の端を行ったり来たりしてさ、何度も淵を覗き込むんだ。そしたら気づくんだよ、自分が蠍のことを考えてるって。蠍、蠍って頭の中で喋るんだ。そうしたらもうその一日は蠍の一日なんだよ。本当はお腹が空いてて、すぐにでも何か食べなきゃいけないのに蠍の一日なんだ。もしかしたらあんまりがっかりして食べ物を探すのをやめてしまうかもしれない。蠍はああ、食べられてやれば良かったと思いながら死ぬし、いたちはああ、腹一杯食いたかったなあと思いながら死ぬんだ。それってすごく悲しいよ。本当に悲しいなあ。」僕は答えた。「質量保存の法則だよ。バクテリアだよ。蠍といたちがそこで死ななかったらその後の世界は無いんだよ。今だってそうさ。一挙手一投足がさ、未来の全てを規定してるんだぜ。あそこでそのバクテリアが生を得られなかったら、そこから分岐する全ての命が消えてなくなるんだ。僕たちはさ、生きているだけで選ばなかった未来にあるはずの全てを抹殺しながら歩いてるんだよ。だから君の全てには過去と未来が含まれているのか聞きたいんだ。生きる事に僕は過去と未来を含めることができないんだよ。全てって何だい。」彼は答えられなかった。それから言った。「葬式なんかやらなくって良いからさ、見ててくれるかい。」僕はうなずいた。彼は筆箱からペーパーナイフを取り出すと思い切り首に刺して力一杯横に引いた。僕の親友は自殺者になった。すると今まで三人一緒で歩いてきた彼女が喉の奥でヒャアッと大声を上げた。僕はびっくりした。彼女は首に空いた穴を両手で押さえていた。自殺者も少しだけ不思議そうな顔をしたように見えたけど気のせいだったかもしれない。何にせよ血は噴き出していたし、彼は死んでいく最中だった。彼女はあああ、あああ、と切れ切れに焦った叫び声を上げていたけど、そのうち泣き出して、倒れた自殺者の側にあった石を手に取り顔を叩き潰しだした。僕としても焦る他なかった。顔を潰して欲しいとは言わなかったはずだ。「やめなよ。」僕は言った。「こいつは。」彼女は言った。「名前をつけてたんだ。私は。全部。こいつの中に生きてる菌や虫に。最近ジョニーの所じゃ子供が生まれたばかりなんだ。それをこいつは。殺してやる。殺してやる。」彼女が石を振り下ろす度に彼の顔面は跡形もなく崩れ、そして顔の表面に住んでいた小さい者たちは行き場を失ってしまった。彼らに生を奪われるはずだった更に小さい者たちは命を得ることになった。


散文(批評随筆小説等) 蠍の火 Copyright dopp 2014-07-31 17:19:18
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