小屋
草野大悟2

毎年、元日の午後七時になると、その男は現れる。
 女が、ステージでうつ伏せになるのを見計らって添い寝し、白い尻を軽く噛んだあとペニスを突き立て、激しく腰を動かす。
 激しく、激しく、動かされていた腰は、男が、放精する鮭のように大きく口を開けた瞬間、ピタリとその動きを止める。
そのあと、男は立ち上がって正面を向き、砂に埋もれたあの「ゴヤの犬」の目をして僕を見上げ、紺色のジャージを膝まで下ろしたまま、すーっ、とステージの袖に消えてゆく。ペニスは勃起したままで、男が射精していないことが分かる。
 男が、この小屋に来るようになってもう五年になる。
 いつもうす汚れた紺色のジャージを着、泥だらけのスニーカーを履いている。白髪混じりの無精ひげが伸びた顔には、生気がまったく感じられない。
 この男が初めてステージに現れたとき、僕は思わず照明室のマイクを掴み、やめて下さい!、そう叫びそうになった。でも、女は平然とステージを続けているし、客も、何事も
なかったかのようにストリップに見入っている──。

 僕は、川崎市の多摩区で生まれた。
 父と母は「中村屋」という、客が十四、五人も入ればいっぱいになるような食堂を営んでいた。
 小学校は、駅の近くにある百合ヶ丘小学校に、中学校は、その近くの百合ヶ丘中学校に通った。
 学校ではいつも一番前に並んでいた。
 あだ名はいつだって「チビ」だった。
 僕は、小学校のころからほとんど目立たない、というより、みんなから完全にシカトされた存在で、欠席しても出席しても誰も気に留めない、先生でさえ気にも留めない、そんな子供だった。
 勉強はできなかった。運動はなおさら苦手で、運動会や水泳大会などは、死にたくなるほど嫌だった。学校に火をつければ大会は中止になるな……そんなことを真剣に考えたこともあった。もちろん、実行には移さなかったけれど。 
 物心つくころから、僕には、人には決して見えないものが見えた。
 小学校二年の、夏休みに入ったばかりの蒸し暑い日だった。僕の家の道向かいにある「セルパン」という喫茶店の一人娘、マミちゃんが、店のドアの前に、顔中血だらけになって立っているのが見えた。
 すっかり驚いてしまって
「マミちゃん!大丈夫?」
そう叫びながら道を横切ろうと駆けだしたとたん、マミちゃんは黙ったまま無表情で、すーっ、と「セルパン」の中に入っていった。僕もその後を追って転がり込むように店内に入った。
「どうしたの、文人ちゃん。青い顔して大丈夫?」
マミちゃんそっくりの母親が、不思議そうな顔をして訊ねた。そのすぐ横には、ウサギのぬいぐるみを抱いたマミちゃんが、にこにこ笑いながら立っていた。
それから二日後、マミちゃんは、店の前で車にはねられて死んだ。とても人なつっこい、目のぱっちりした色白の女の子で、そのとき確か五歳だったと思う。
 それから時々、同じ学校の子や、全く見ず知らずの通行人の背後に、ロープを首に巻きつけまっ青な顔をしたその人や、全身血まみれになった本人が、影のように付き従っているのが見えるようになった。

 山中くんのことはよく覚えている。
 小学四年のとき、同じクラスだった。
 彼は、僕の次に小さくて、同じクラスの男子から、教科書を破られたり、プロレスごっこでスリーパーホールドをかけられたり、自殺の練習をさせられたり、ズボンを下ろされたりしていた。
 それでも彼は、ぎこちない笑顔を浮かべながら、毎日学校に登校してきていた。
 そんな山中くんの顔が、次第に青白さを増してきた十二月二十二日、僕は、理科室の人体標本の横で、首を吊っている彼を見つけた。 彼は大便や小便を垂れ流し、青ばなを垂れていた。駆け寄って、彼を下ろそうとした瞬間、山中くんが突然目を開き、ニタァッ、と僕に笑いかけた。僕は腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
 それから、二日後の十二月二十四日、山中くんは、理科室の人体標本の横で、僕が二日前に見たのと寸分違わない格好で死んでいた。 クリスマスイブのその日は、山中くんの誕生日だった、と担任の先生が目をしばたたかせながら教えてくれた。
 僕は、その一部始終を両親と先生に話した。彼らは、気持ちの悪いものを見るような目をして僕を見た。両親が僕を気に入らず、同級生が僕を直接いじめない理由のひとつが、ここにあるように思える。

 中学校のすぐ隣に「ゆりストア」というスーパーがあり、僕の大嫌いな、でも、父と母は大好きな、ウサギ肉が、時々売り出されることがあった。
 店の仕入れを兼ねた買い物は僕の役目で、「ゆりストア」のチラシにウサギ肉の安売りが載ると、母は「文人、今日はウサギステーキよ」、と妙にうきうきして、僕にウサギ肉を買わせ、それを甘辛く焼いてくれたけれど、僕はげんなりするばかりだった。
 父は、店の人気メニューのウサギステーキを旨そうに食べながら焼酎を飲んで
「文人、旨いぞ。男はな、肉をたくさん食って力をつけて、偉くならなくちゃならん。大きくならなくちゃならん。いいかぁ、食え、食え、旨いぞ」
そう何度も僕にウサギの肉を勧めた。そういう父は、小柄な母より小さかった。
 僕は、そのころ中学校の生物クラブに入っていて、毎日の餌やりが大変だ、という理由で希望者のいなかった白ウサギの世話を担当していた。だから、愛らしい雪のような生き物の肉を食べることなどとてもできず、やっと口に含んで食べたふりをし、父と母に見つからないように、そっとティッシュにくるんでポケットに隠し、食事の後で捨てていた。
 僕には、友だちなどいなかった。
 僕を好きになってくれる女の子など、もちろんいなかった。それで、昼休みには「ウサギ小屋」に行ってウサギと話をしていた。
 ウサギは白ウサギばかり五羽いたが、その中でも一番小さくて餌もなかなか摂れないウサギが、僕によくなついていた。
 僕はそのウサギにシロという名前をつけ、他のウサギが餌を食べている周りで、餌にありつけずにうろうろしているそいつに、みんなが餌を食い終わった後で、こっそり餌をやっていた。そうしないとシロは永遠に餌にありつけなかった。シロの目は、いつも濃いルビー色に輝き、濡れていた。 
一坪ほどの広さと二メートルほどの高さの「ウサギ小屋」は、僕の聖域だった。鍵を僕が管理していたから、同じ生物クラブ員も、僕の許可なしには中に入れなかった。ただ一人の女の子を除いては。
中学二年の春、新しいクラスになったばかりで、なんだか居場所がないと感じられる昼休み、「ウサギ小屋」に行こう、そう思って教室を出かかった僕に
「中村くん、ウサギ見せてくれる?。陽子、ウサギ大好きなんだ」
女の子がそう声をかけてきた。ふりむくと、ショートカットの女の子が、二重まぶたの大きな目をまっすぐ僕に向けて微笑んでいた。 それが、佐藤陽子だった。
 彼女は新体操部で、ずば抜けて成績が良く、ショートカットが似合うとても可愛い女の子だった。
 僕はこれまで女の子から声をかけられたことなど一度もなかったから、すっかり舞い上がってしまって
「えっ……あっ、あ……」
と、言葉にならない音を発するだけで精一杯だった。
「ね、見せてくれる?。陽子、ウサギ大好きなんだ」
彼女は、僕を見つめて微笑みながらまた同じことを言った。
「う、うん……」
やっと返事ができた。
「よかったぁ、行こ」
「う、う、うん……」
「はやく、行こうよ。陽子ね、今日、ほら、ウサギにやろうと思って人参とかセロリとか持ってきたんだ。あげていいよね?」
「う、う……」
僕がしどろもどろになっていると、彼女は、突然、はじけるように笑い出した。
「? ……」
「中村くん、う、とか、うん、とかしかいわないんだもん。いっつもそう?」
「えっ、あっ、ま、そう……かな……」
そんな会話にならない会話をしながら、僕と彼女は体育館のすぐ裏手にある「ウサギ小屋」へと歩いていった。
佐藤陽子のために、僕はあっさり、聖域の鍵を開けた。
 一番なついているシロが寄ってきて餌をねだった。
「この子、小さいね。ほら、人参だよ」
シロが彼女の手から人参を食べようとしたその瞬間、他の四羽が寄ってきた。その中でも一番大きいのがそれを奪い取り、うまそうに食べてしまった。
「あっ、あの子、ひど〜い。横取りしちゃったよ、中村くん」
「う、うん、いっつもなんだ。シロ、あ、この一番ちっちゃな奴の名前、シロはいっつも他のウサギに餌を取られて、なかなか餌にありつけないんだ。だから、僕、シロには、また別に餌をやってる」
喋れた。佐藤陽子の前で、喋れた。
学校中の男子みんなが憧れている陽子と喋れた。
 僕は、自分でも驚きながら、すこしばかり誇らしい気持ちになった。
「そうなんだぁ。かわいそうだね、シロ。ちっちゃいとイジメられたりするもんね、やっぱ」
「うん、イジメられる」
「そう、なんでかなぁ、おんなじウサギなのにね、なんでイジメるんだろ?」
「さあ、分かんない。佐藤さんは、なんでと思う?」
「う〜ん、陽子も分かんない」
「佐藤さんに分かんないことが、僕なんかに分かるはずないよ」
 そういった時、彼女が怒ったような顔になった。
 彼女は、急に無口になって、学生カバンの中からセロリや人参を取り出し、ウサギたちに食べさせた。そして、ふいに僕の目をまっすぐ見つめて、はっきりと、こういった。
「陽子ね、『僕なんか』とかいう人、嫌いだな。中村くん、なんでそんなこというの?」
「え、えっ、あ……」
(だって僕は、成績も最悪だし、運動だってまったくできないし、小さいし、得意なことなんて何にもないし、みんなから完全にシカトされてるし……)
言葉にならなかった。
「ごめん、また見せてね」
 そういい残して、彼女は「ウサギ小屋」を出て、すぐ前にある体育館の方に歩いていった。僕は、そのまま固まって、ぼんやりとシロを眺めていた。ついさっきまで、佐藤陽子がここにいて、彼女と喋っていたことが幻のように思われた。
 その後も、月に二、三度くらい、彼女はウサギ小屋に来た。人参やセロリを学生カバンにしのばせて。そしてそれは、僕たちが中学校を卒業するまで続くと信じていた。
 彼女のお父さんが農水省という所で働いていること、お母さんは専業主婦で油絵を描いていること、妹が一人いることが「ウサギ小屋」で彼女と話すうちに分かってきた。

 中学三年の一学期終業式の日、彼女は
「中村くん、今度、八月九日に県総合体育館で、新体操の大会があるんだけど、見に来ない?陽子、リボンとクラブ両方に出るんだよ」
すこしばかり顔を赤くしていった。
 ウサギを見せたお礼のつもりだったのか、
それとも、お別れのつもりだったのか、今でも僕には分からない。
「は? えっ? しんたいそう……」
僕も顔をまっ赤にして、(行くよ、絶対行く)心の中でそう返事し、うなずいた。

 八月九日、僕は、いつものように一人で県総合体育館に行った。
 体育館の周りの木立では、ワシッワシッワシッとクマゼミがうるさく鳴き、空はまっ青で、太陽がギラギラ照りつけていた。
 バスを降りて体育館の入口まで歩いただけで、蒸し暑さに押し潰されそうで、ふらふらになった。
 一階のフロアには、レオタード姿の女の子たちが集まってはしゃいでいた。僕は、ただ、まぶしくて、もうオロオロして、早く二階の観客席に行こう、と階段の方に急いだ。そのとき
「中村く〜ん」
 僕を呼ぶ声がした。
 佐藤陽子が、手を振りながら駆けてきた。僕の前まで来ると彼女は息をはずませ
「来てくれたんだ、ありがと。あのね、二階のね、東側中央席がね、いっちばん良く見えるんだよ。じゃ、あとでね」
そういうと、また練習場の方へ走って行った。レオタード姿の彼女を初めて見て、僕は、すっかりドギマギしていた。
 とにかく、二階の東側中央席に行こう、そう思って二階に上がったけれど、どこが東側中央席なのかさっぱり分らなかった。それで、演技が一番見やすそうな、そして、できるだけ同じ中学校の生徒に見つからない席に、こっそり座って競技の開始を待った。席のあちこちに「撮影禁止」の紙が貼られていた。
 一階の広い競技スペースは二分され、僕が座った席の前が演技をするスペースで、残りが練習用スペースになっていた。冷房の入っていない蒸し暑い会場で、リボンをくるくる回したり、クラブを高く放りあげ、続けて二回前転をして、落ちてきたクラブをキャッチしたりして、たくさんの選手たちが練習していた。
「7番、佐藤陽子さん」
 場内アナウンスがそう告げた。
「はい!」
というよく通る声が響き、彼女がつま先立ちで競技スペースのマットの上を歩いてきて、ポーズをとった。彼女は濃紺のレオタードを着ていた。色白の彼女に、それはとてもよく似合っていた。
(ガンバレ、陽子、ガンバレ)
どきどきしながら、こっそりと胸の奥で叫んだ。
 音楽が流れ出した。それは、どこかで聴いたことのあるアップテンポの激しい曲だった。何だったっけ。思い出せない。
 彼女の操るリボンは、波のように、風のように彼女の体の一部となって自在に、優雅に舞った。彼女は、演技が楽しくてしようがない、というように満面の笑みを浮かべ、何度回ってもターンの軸はぶれず、全身から光を発していた。
 伸びやかなその演技に、会場全体がすっかり魅せられていることが、僕にでも分かった。
 僕もすっかり引き込まれ、マットの上を自由に跳びはねる彼女を一心に目で追っていた。 水平に投げられたリボンの柄が、引き戻されて剣のように彼女の手元に戻ったとき、あっ、と思った。剣の舞だ。夏休み直前の音楽の授業で聴いたばかりだった。
 演技が終了したとき、僕は思わず拍手をしていた。彼女はにこにこしながら客席の一点を見つめ、手を振っていた。そこには、母親らしい女の人と白い顔をした女の子が、満面の笑顔で拍手を送っていた。
 得点がボードに掲示されると、会場から一斉に「お〜っ」という声が洩れた。それで僕にもかなりの高得点が出たことが理解できた。
その後行われたクラブの演技でも、彼女は体の柔らかさを活かした伸びやかな演技で観客を魅了した。
 この大会で、彼女は種目別のリボンとクラブ両方で一位となり、総合優勝を勝ち取った。 表彰台のまん中で、客席に向かって、あふれるような笑顔で手を振っている彼女は、ショートカットの女神に見えた。
 その日、家に帰っても、僕は、なんだかほんわかした光に包まれているような、とても幸せな気分だった。
「なんだい、この子は。さっきからにやにやしっぱなしで、気持ち悪いったらありゃしない」
母親からそういわれても、へへへ、と笑っていた。

「中村君、大変! 学校に来て! 早く!。全部死んでる。ウサギ、全部死んでる!」
翌朝、佐藤陽子からの電話でたたき起こされた僕は、自転車をとばして学校に急いだ。
「ウサギ小屋」に着くと、そこには青い顔した体操服姿の彼女と、生物クラブ担当の先生と生物クラブの生徒たちがいた。
「新体操部の朝練で体育館に来て、ちょっとウサギを見ようと思ってここに来たら、ウサギが、ウサギが……」 
 小屋の中に入った。
 ウサギたちが死んでいた。
 腹を食いちぎられたり、頭がなかったり、足だけが残されていたり、白い毛が血に染まっていた。一番大きかったウサギの生首が、小屋の天井の金網に引っかかってゆらゆら揺れていた。
「シロ、シロ〜、シロ〜」
 大声で叫んだ。
五つ並んだ水入れのポリタンのわずかな隙間から、シロがよろよろと出てきた。
 右の後足にナイフで裂いたような傷があった。その目はいつもより深いルビー色に濡れて、泣いているようだった。他のウサギが入れない狭い隙間に、シロは逃げ込んで隠れていたのだろう。体が小さなこともたまには役立つな、脈絡なくそう思った。
「おまえ、小屋の鍵はちゃんとかけたんだろうな」 
先生は僕を睨み付けて言った。
「あ、あのう、昨日は用事があって小屋には来ていません……」
「だからぁ、鍵だよ、カギ! 鍵をかけたのかって訊いてんだよ」
「えっと、えっと、土曜の午後に学校に来て、水替えしたり餌をやって……それで鍵かけて……理科室のいつもの場所に置いて帰りました……」
「ほんとだな、ほんとにそうか?」
「えっと……はい……」
先生から問いつめられている僕を、薄ら笑いを浮かべながら生物クラブの男子数人が眺めていた。
 おまえのようなサイテーの奴が、陽子と仲良くしようなどとするからだ、だからうちのドーベルマンに殺らせたんだ、鍵の置き場所なんかみんな知ってんだよ、ばぁ〜か、そんな声が聞こえたような気がした。

暑いわね! こんなにあつくっちゃ何にもできないわ。クラス会楽しみにしていたのに右手がストライキをおこしちゃって。リボンの練習で変にねじってだいぶカッカきたみたいなの。こんなへんてこりんな字でごめんね。この夏休み何にもできないの。最てい! 海にも行けない、クラブもダメ、勉強も……なんていつも勉強はさぼっているのにこんな時にはやりたいの……アマのじゃく……。
 ウサギさんたちのこと、本当に、残念です、可哀相です……でも、「シロ」が無事だったことが何よりです。気を落とさないでね。お父さんの転勤が決まりました。熊本の九州農政局というところに行くということです。それで、私も二学期からそちらの中学校に転校します。いつもウサギを見せてくれて、ありがとう。
暑さに負けないよう、お互い頑張ろう!

左手で、ハガキにびっしり書かれた、角張った字の暑中見舞いを読みながら、手が震えるのが分かった。
 佐藤陽子が転校する……
 二学期からもう彼女の姿を見ることはできない。
 ショートカットのあのはじけるような笑顔と、くるくるとよく動く利発な瞳をもう見ることはできない。
 体中の力が抜けていった。

その後、僕は誰でも入れる高校に入学し、これまでどおり誰にも相手にされず、高校生活を過ごし、なんとなく卒業した。
 将来、何になりたいとか、夢に向かって頑張るとか、そんなことは僕には無関係だった。 万が一、何かに関心を持ったとしても、僕に夢を叶えることなどできるはずがない、と思っていたし、叶えるべき夢なんかぜんぜんなかった。
 大学にいきたいなら自分で稼いでいきな、そう両親からいわれていたけれど、僕は大学にいく気など、はなからなかった。
 就職も、どこがいいなど、希望めいたものはなかった。どこでもよかった。夢や希望や頑張りなどという言葉ほど僕から遠い所にある言葉はなかった。
 ある日の午前中、母親に頼まれた買い物をするため、「ゆりストア」まで商店街を歩いていると、その中ほどにある百合ヶ丘ショー劇場入口に、「従業員募集、高給優遇」、と手書きされた紙が貼られているのを見つけた。その貼り紙に吸い寄せられるように、僕はふらふらと劇場の中に入っていった。
「坊主、なんだ?」
野太い声が響いた。声のした方を見ると、暗がりの中に坊主頭のがっしりした男の姿があった。
「あのう……表の貼り紙見て……」
「ああ、あれか。でもよぉ、おめえ中学生じゃねぇか」
「え、あ、あのう……高校、卒業したばっかっす」
「へぇ〜、マジかよ、それにしちゃ小ちゃいな」
「え、ええ……」
「ふう〜ん、ま、いいや。明日からでも来な」
その人が、ここの経営者の高村さんだった。
 家に帰って、明日から百合ヶ丘ショー劇場で働くことになったから、そう両親にいったけれど、二人はほとんど興味なさそうに、そうかい、とだけ応えた。

 次の日から毎日、掃除や、女たちの靴磨きや衣装運び、みんなの食事の後片づけ、呼び込みの手伝い、モギリの手伝いなど、いわれるままに働いた。
 三年くらいたったある日、照明と音楽担当の田中さんが僕を劇場内のある場所へ連れていった。そこは、不思議な機械がいっぱい並んだ二畳ほどの部屋で、客席後方の少しばかり高い場所にあった。
「そのスイッチ入れてみろ」
田中さんにいわれるままにスイッチを入れた。うす水色の光の束がすーっとのびて、ステージの白い幕に丸いうす水色の輪をつくった。
「これが、スポットのスイッチだ。次は、その右のスイッチを入れてみろ」
いわれるままに、またスイッチを入れた。天井一面がさくら色に染まった。
「今のがメインスイッチな」
煙草をふかしながら田中さんがいった。
「これ、何ですか?」
僕がむせながらそう訊ねると、田中さんは夥しい機械類をひとつひとつ丁寧に説明し、実際に作動させてみせてくれた。
「これがスライダックス」
「そしてこれは、ピンクスポットスイッチ」
「これは、ミュージックCDミキサー」
田中さんの説明を聞いているうちに、僕は何がなんだか分からなくなったきた。うす水色とさくら色の光が頭の中でくるくる回っていた。
 その時から、僕は田中さんに付いて照明や音楽の最も効果的な演出法を教わり、二年後に、やっと、田中さんのOKがでた。僕は二十三歳になっていた。
「これでどうやら大丈夫だな、俺も安心して辞められる」田中さんは、そういい残して小屋を去っていった。
 僕は、田中さんの年齢や家族や私生活などについてはまったく知らなかったし、興味もなかった。田中さんが、その時六十五歳だったことや、四十歳で奥さんと離婚して娘二人は奥さんが引き取り、それ以後一人暮らしをしていたことなどを、後になって、モギリのおばさんから聞いた。
三十歳になったばかりの春、僕は十二年間お世話になった百合ヶ丘ショー劇場を辞め、
西船橋のホワイトメトロというストリップ劇場に移った。客として、たまたま、百合ヶ丘ショー劇場に来たホワイトメトロの経営者が、ダンサーの踊りにマッチした照明と音楽がとても気に入って、ぜひ、うちに、と僕を誘ったからである。これまで人から誉められたことなど一度だってなかった僕は、なにか居心地の悪い嬉しさを感じ、その人の誘いを受けることにした。
 ホワイトメトログループは、全国の観光地に小屋を出しているこの業界最大手で、転勤も全国に及んでいた。それが嫌で辞めていく従業員もいたが、僕は独り身であり、どこで仕事をしようがまったく問題はなかった。それで、西船橋から新宿、仙台、札幌、博多と回り、六年前に熊本にやって来た。
 僕はどこの小屋にいっても、女が美しく見えるように仕事をした。女たちが持ち込んだ
CDを編集し、彼女らの希望を最大限に取り入れて新しいCDを作った。CD持ち込みのない女には、その子のために、その子に一番合いそうな曲を選び、ステージミュージックのCDを作った。

 今、僕が住んでいるのは、小屋の二階にある三畳の部屋だ。月給は三食込みの手取り十五万円。男一人食っていくには、十分な額だと思っている。
 僕は煙草を吸わないし、ギャンブルも女遊びもしない。月一度の休みに、ビールを飲みながら、DVDをゆっくり見ることが一番の楽しみだ。DVDは、中央街にあるレンタルショップで借りる。特に、黒澤明のものが好きだ。それもモノクロで撮影された作品に惹かれる。
 仕事は、一応、朝十一時から翌朝二時までということになっているが、時間どおりにいったためしはない。
 女たちは、十日ごとに入れ替わる。今、ここで踊っている女たちも、十一日目には違う小屋に移る。その手配は、大阪の「ある組織」がやっているというが、それがどんな組織なのかは経営者が知っていればいいことで、僕にはまったく関心がない。
 僕がもっとも忙しく、最もわくわくするのは、新しい女たちが小屋に来るときだ。
 彼女らは二、三人一緒に来るときもあるし、一人で来ることもある。
 日本人の女は、ほとんどがステージのある日の朝九時ころに来て、このCDでやってちょうだい、とマイCDを持参する。
 しかし、外国人の女でCDを持ち込む者はまれである。それで、それぞれに好みの曲を訊ね、ワンステージ分の音楽を編集する。
 ワンステージには、六曲の音楽が必要で、
  一曲目が  踊り
  二曲目に  脱ぎ
三曲目は ソロベッド
  四曲目 ベッド
  五曲目   立ち上がり
  六曲目が  ポラロイド
の順になっている。
 僕は、女のイメージに一番マッチする六曲を選び、それを編集して、三十分のCDを作る。
 ここに来る外国の女は、若い子が多い。なかには信じられないほど美しい子もいる。彼女らはどのようなステージを作るのかを、懸命に考えている。客の受けが悪ければ、次からは日本の小屋には呼んではもらえない。それで、僕はとことん彼女らに付き合うようにしている。
 小屋の営業が終わり、掃除が済んだあと、彼女らと僕とが対になってステージ構成を検討する。
 僕は、踊りの振り付けなどしない。それは彼女らに任せ、六曲の中のどのステージでその子を最も美しく見せるか、それだけを考える。
 照明は何色にし、ピンスポットをどこに当て、ミラーボールやブラックライトをどのように使い、花道の電球やステージライトをどの角度で何個当てるか、など繰り返し繰り返し検討する。
 客の全くいない小屋で、深夜の照明室に一人で座り、彼女たちの踊りを見つめていると、僕は何ともいえない幸福感に満たされる。女が僕のために、僕一人のために、全力で踊っているような錯覚さえ覚える。彼女らの踊りは美しい。女の白い肌にうす水色のスポットを当てると、まるで海の中を泳ぐ妖精のように見える。
 彼女らの陰部も、ポラで客にそれを撮影させる所為も、ステージ上で客と性交することさえ僕には美しく見える。これまで何百人、いや何千人の生身の女を見てきただろう。裸の女たちの陰部は、卑猥で、誇らしげで、女であることの全存在を誇示しているように思える。
      
この小屋には僕の他に、四人の従業員がいる。全員が住み込みで、僕の部屋と同じ造りの三畳の個室に住んでいる。
 「賄い」の島村さんは、みんなの食事を作っている。昔はダンサーとしてステージに立っていたそうだが、年とともに両膝に水がたまるようになり、今では杖なしでは歩けない。彼女にヒモのようにぴったりと付いていた男も、いつの間にかどこかへ姿をくらました、ということだ。
 「モギリと事務」をやっている清田さんは、七十歳くらいで、ガリガリに痩せていて黄土色の顔をしている。大の酒好きが祟って、ダンナも子供も気づいたときにはどっか行っちゃったよぉ、と酔っ払うと口癖のようにいう。
 「客引き」のナリちゃん、本名は知らない。三十代と思われる男性で、いつも何かに怯えたようにオドオドしている。客を引く時も、小さな声でおどおどと声をかけるから、客も変に警戒してなかなか誘いに乗ってこない。なので、社長の中川さんから怒鳴られ、いつも、「すみません、すみません」、と何度も何度も頭を下げている。
 「雑役全般」のクラさんこと倉本さんは、喋らないし、人と目を合わせない。以前は、家庭を持って会社勤めをしていたらしいが、そこでの仕事があまりにも忙しくて、うつ病を発症し、長い間入院している間に会社をクビになり、家族からも見捨てられた、と清田さんが教えてくれた。
 社長の中川さんは、色黒のガッチリした人で、毎日小屋に顔を出し、従業員にこまごまとしたどうでもいいことをクドクドいって、みんなから嫌われている。照明や音楽の使い方や僕の言葉づかいなどにも、いろいろ文句をいう。僕は、はいはい、と一応神妙な顔をして聞いてはいるが、照明と音楽の仕事をもうずいぶん長くやってきているから、中川さんの文句に付き合って、僕のやり方を変えるつもりは更々ない。      
給料は、社長の叔母さんに当たる松本さんという丸々と太った人から貰う。
 僕がここに来る前は、この人が社長で、ホワイトメトログループから実質的にこの小屋の運営を任されていたらしい。しかし、何かもめごとがあって中川さんに後を譲り、中川さんは大金を払ってグループから独立したそうだ。ここにもう三十年以上働いている清田さんがそういっていた。何があったか、などとは訊ねなかった。僕は、他人のことにはほとんど興味がない。
 ここで働くみんなは、それぞれが、小屋のひとつひとつの細胞のように小屋に馴染み、小屋に守られ、その一部となってひっそりと生きている。

 吸い込まれるように小屋に入ってくる客にも、いろんな人たちがいる。
 一日の全ステージ、四ステージを最初から最後まで見る人、酔っ払ってダンサーにやたらと触る人、アベック、男の二人連れ、ポラでダンサーの陰部を撮りまくり一枚千円を出して全部買ってゆく人、まな板ショーで真っ先にステージに上がる人、いろんな人の後ろ姿を僕は長い間照明室から見てきた。
 僕がこの小屋に来て、確か三年目の冬だったと思う。それまで一度も見たことのない老紳士が、毎日のように小屋に来るようになった。
彼は、一番後ろの席に座り、一回目のステージから四回目まで一日中ショーを見ていた。
僕は、当初、あまり気にも留めずにいたが、女の子たちが入れ替わる十日間が過ぎたころから、無意識のうちにその最後列の席に目がいくようになっていた。
 彼は、実に熱心に、開演から終演まで、一日中ステージを見つめていた。背筋をすっと伸ばし、身じろぎひとつせずに正面を見ているその後姿に、僕は祈りに似たものを感じた。
 彼は、七十歳をとうに過ぎているように見えた。チャコールグレイのスーツとバーバリーのコートを着込み、痩せぎすで、他の客と異なる毅然とした雰囲気を感じさせた。
 十三日目の全ステージが終わった後、僕は照明室から下りて、立ち上がろうとしていた彼におずおずと声をかけた。
「どうも、毎日、ありがとうございます」
 彼は、少し驚いた様子で
「い、いえ……」
そう応えた。そのとき僕は、明るくなった小屋の中で、初めて彼の顔を見た。そこには涙の跡が残っていた。澄んだ瞳の中に、熱のようなものが潜んでいた。
僕はじっと老紳士の瞳を見た。他の客がけげんそうな顔をして帰ってしまった後、彼は椅子に座り、長い沈黙のあと、思い切ったように、こう切り出した。
「十三日間、本当にいいものを見せて貰った」
僕も、ゆっくり、彼の隣の席に腰を下ろした。
「見ず知らずのあなたに話すのもなんですが、実は、五ヶ月前に会社が倒産しましてね、それと重なるように妻が倒れて、その日のうちに死んでしまいました。急性心筋梗塞でした。戦後、それこそ寝食を忘れて働いて築いてきた会社と、子供には恵まれなかったけれども僕を支え続けてくれた妻を同時に失いましてね、空っぽになりました。それで、妻の葬儀と会社の整理を済ませて、東京から旅して来たんです。昔、妻と一緒に旅した所を、妻の遺骨と一緒にね」
彼は、正面をじっと見据えたまま、抑揚のない、しかし、しっかりと心に響く声でそう話した。
「私、実は、これまでストリップというものを見たことがなかったんです。それで、一度
見てみたい、と思って……。妻には叱られるかもしれませんが……」
そういい終わると立ち上がり、ありがとう、と頭を下げ小屋から出ていった。そのすぐ後を、頭蓋骨の陥没した彼の影がついていくのが見えた。彼はもうこの小屋には来ない、この世の誰も、二度と彼に会うことはできない、そう感じた。
 後片づけをしながら、そのことを清田さんに話した。それに、毎年、元日に現れるあの男のことも。
 日ごろめったに口を開かない僕が話しかけたものだから、清田さんは少し面食らって
「えっ、ああ……、あたしもねぇ、あの爺ちゃんのことは気になっていたよ。そう……そうだったの」
ため息まじりにいった。
 そして、こう続けた。
「その元日の男ねぇ、一人思い当たる男がいるんだ。あんたがこの小屋に来る一年前の元日の午後七時にね、男が一人死んだんだよ。そのころはとっても不景気でさ、前の社長の松本さんが、外国人のダンサーに客とセックスさせて、あ、あそこの、ほら、今掃除道具が置いてある所、そこに小さな部屋があってね、その部屋をピンクボックスといってそこでセックスをさせてたんだ。一回三千円でね。その半分が女たち、半分が松本さんの取り分ということでね。そのときは確かコロンビアから女が来ていた。それで、あんたが今話した紺色のジャージを着た男がそのピンクボックスに入って、コロンビアの女とセックスしようとしたのよ。でもさ、その男、心臓が悪くて入院中だったのよ。病院に黙って出てきて、その上酒まで飲んでたもんだから、こう、ジャージを下ろしてセックスしようとしたとたん、心臓マヒおこして死んじまったんだよ。それからが大変。警察が大勢来て、不法就労ナントカで、そのコロンビアの女とその仲間2人は逮捕されるし、松本社長も逮捕されてね。私たちもみんな警察で調べられたよ」
清田さんは、一気に喋ると、ふーう、と大きなため息をついた。
僕は、黙って聞いていた。
 後片づけを終わって外に出ると、粉雪が舞っていた。

 熊本に来て七年目の年が明けた。
 男は、元日の午後七時に、いつものように現れ、いつものようにもの哀しい目をして去っていった。
 年明けとともに小屋に来たダンサーたちの中に、僕を心底驚かせた子がいた。
 その子は、白系ロシア人のダンサーだった。 その子が小屋に着いたとき、僕は、心臓が口から飛び出すほど驚いて、その場に立ちつくしたまま、しばらく動けなかった。
 ショートカットの髪、二重まぶたの大きくて勝ち気な瞳、均整のとれた小柄な体、白く輝く肌、明るい笑顔、ブルーの瞳とブロンドの髪の佐藤陽子がそこにいた。
「よろしく、お願いします」
その子は、流暢な日本語で挨拶をして、僕にCDを手渡した。
「こ、こっ、……こちらこそ」
コチコチになって僕が返事をすると、彼女はにっこり笑って右手を差し出した。僕も、誘われるように右手を出し、握手をした。
握手をしているときも、彼女は微笑みながら僕の目をまっすぐ見つめていた。
 中三のときに、父親の転勤で熊本に行ってしまった佐藤陽子とは、その後、全く連絡が取れなかった。お互い、住所も連絡先も何も分からなかったし、僕は携帯もスマホも持っていなかった。でも、陽子のことは、かたときも忘れたことはなかった。
 僕の部屋には陽子の写真二枚が、額に入れて飾ってある。一枚は、中三になったばかりのころのクラス写真。彼女は、ショートカットの髪をきれいに分け、きっとした瞳で正面を見つめている。あのとき、「陽子ね、僕なんか、とかいう人嫌いだな」そういって僕を見据えた瞳がそこにある。
 もう一枚は、レオタード姿でリボンを操っている写真。陽子の中体連での演技を新聞記者が写したものだ。
 この二枚は、僕が高校に入学してすぐに額入れして作ったもので、どこに行っても部屋に飾っている大切な宝だ。
 元日の朝現れた、陽子とうりふたつのその子に、僕は、夢中になった。
 その子のステージは特に念入りに作った。 六曲目のポラロイドで、客がその子の陰部を撮影しているのを見ると、客を殺してやりたくなった。
 その子の名前は、エフゲニヤ・タチワナといった。年は、二十一歳で、故郷には両親と兄弟七人が暮らしている、とのことだった。
「両親とも働いてる。でも、両親の給料だけでは家族十人、食べていけないね。それで、私、家族を助けるために、給料のいい日本を選んで、興業ビザで入国したの。今度で五回目ね。中村さん、あなたは一番上の兄さんによく似ている。それに、日本の他の男たちのようにセックス、セックスといわないから好き」
 小屋に来て二日目、一日の終わりに、タチワナは僕の部屋に来て、僕の作ったインスタントコーヒーを飲みながら、そんな話をして自分の部屋に帰っていった。
 小屋には、ダンサーたちの個室が七部屋あった。造りは皆同じで、四畳半の畳敷きの部屋だった。僕ら従業員の部屋と彼女らの部屋とは、小屋の二階に、廊下をはさんであった。
 三日目、いつものように僕の部屋に遊びに来たタチワナは、部屋の壁に飾られている二枚の写真に初めて目を留めて不思議そうに首をかしげ、僕にこう訊ねた。
「中村さん、これ、わたし?」
「いいや、それは、タチワナじゃないよ」
「ふう〜ん。わたしにそっくり」
「そう、日本語で、うりふたつ、っていうんだよ」
「ウリ、フタツ?」
「そう、うりふたつ」
「だぁーれ、これ」
 僕の中で、陽子のことを話したい、という気持ちが大きく膨らんでいった。
 写真を見つめているタチワナが陽子そのものに思え、陽子本人に、自分の気持ちを素直に告白するつもりでいった。
「十三のころからずっと好きだったんだよ」
「名前なんていう?」
「名前はね、佐藤陽子っていうんだ」
「さとうようこ……」
「そう、佐藤陽子」
「僕は、子供のころからずっと友だちがいなくて、いつも一人だったんだ。けどね、中学のころ、僕は生物クラブに入っててね、あっ、分かるかな、生物クラブって?。動物や植物を飼ったり育てたりする集まり、というと分かる?」
タチワナは、う〜ん、といいながら小首をかしげている。そんな仕草も陽子そっくりだ。
「でね、そのクラブで僕はウサギの係だった。小さな小屋で、五羽のウサギの世話をしてた。そんなときに、佐藤陽子が、ウサギ見せてくれる? って僕に頼んできたんだ。で、僕はもちろん喜んで彼女を小屋に案内したよ。彼女は、人参やセロリを持ってきていて、楽しそうにそれをウサギに食べさせていた。それから、彼女は、月に二、三度は小屋に来るようになった。ウサギたちに食べさせる餌を持ってね。ところが、夏休みのある日、ウサギたちが殺されたんだ。一番小さいのを除いてね。小屋のカギが開けっ放しになっていて、そこから野良犬が入ってウサギをかみ殺したんだろう、ということになったけれど、詳しいことはとうとう分からずじまいだった。陽子は、新体操をしていてとても可愛かった。成績もスタイルも抜群に良かったから、学校中の男子が憧れていた。タチワナ、君は、ほんとうに、陽子そっくりだよ」
「ウリ、フタツ?」 
 そういって、じっと僕を見つめる。
 陽子とタチワナがひとつになる。あのころは、子どもだった。今、僕は、十分に大人だ。タチワナを抱きしめたい衝動にかられた。でも、僕は、そうしなかった。陽子の写真の前で他の女は抱けない。まして、その子が陽子そっくりなら、なおさら。
タチワナは、僕に、あの「ウサギ小屋」で、佐藤陽子と過ごした僕のもっとも輝かしい日々を思い出させてくれた。
 タチワナは、僕に、これまで僕から最も遠いところにあった「夢や希望」を運んできてくれた。
 毎日が、きらきら、と輝くようになった。
 タチワナを見ていると、溢れる光の中でウサギに餌をやり、にこにこと微笑んでいた陽子や、新体操で満面の笑みを浮かべて演技をしていた陽子が思い起こされて、僕は、とても穏やかで暖かな気持ちに満たされていった。
これまでに随分見てきた、あの「前ぶれ」も全くなかった。
 この幸せは、タチワナがこの小屋にいる間はずっと続く、と何の疑いもなく信じていた。

しかし……僕の幸せは、突然断ち切られてしまった。
 タチワナたちの、この小屋最後の公演の日、彼らは、群れをなしてやって来た。
 その日は、土曜日で客も多く、立ち見も出るほどだった。その大勢の客の中に彼らは潜んでいた。まるで獲物を狙う黒い犬のように気配を消して。
 その日、三番目にステージに立ったタチワナが、五曲を踊り終え、六曲目のポラロイドにかかった。
 彼女が、微笑みを浮かべて陰部をポラで客に写させた瞬間、客席最前列にいた犬が、黒い影となってステージに駆け上がり、吠えた。
「警察だ! そのまま動くな!」
そう怒鳴った犬は、タチワナの喉仏に食らいつき、首を噛みちぎった。
 タチワナの生首が、微笑みを浮かべたまま宙を飛び、スポットライトに引っかかった。 首をなくした白いウサギが、ゆっくりとステージの上に倒れこんだ。
 僕は照明室から飛び出し、タチワナの所へ走った。ステージに着いた瞬間、犬が僕の喉元を狙って跳びかかってきた。それと同時に黒い犬の一群がなだれ込んできた。
 ダンサーの一人が屋上に続く階段を駆け上がった。犬が追った。
 逃げようとする客たちを、出入口を固めていた犬たちが阻んだ。客たちの絶叫と犬たちの怒号が飛びかい、小屋は騒然となった。従業員と残りのダンサーたちは、犬の一群がなだれ込んできた直後、小屋の非常口から逃げようとした。しかし、そこにも犬たちが待っていた。涎を垂らし、薄ら笑いを浮かべながら逃げてきた者たちの喉仏に食らいついた。
 逃げまどうウサギたちを、犬たちが容赦なくかみ砕いていった。ウサギの白い毛には、まっ赤な血が付着し、犬が激しく首をふるたびに、くわえられているウサギから血しぶきが飛び散り、白いスクリーンに血まみれの絵を描いた。
 小屋の中は血の海になり、内臓を食いちぎられたウサギの死体が、あちこちに転がっていた。ウサギたちに逃げ場はなかった。次々と襲われ、食い散らかされてゆくウサギたちの中に、清田さんや島村さんやナリちゃんや倉本さんがいた。四人は食いちぎられ、血にまみれて死んでいた。
 喉を食い破られてステージの真下に倒れている僕を、濃いルビー色の目をした小さなウサギが、心配そうに見つめていた。
 (シロ、早く逃げろ……)
薄れてゆく意識の中で叫んだ。でも、シロは僕をじっと見つめたまま動こうとしなかった。僕もシロを見つめた。
 その時、僕とシロを光が包んだ。
 (こっちだよ。こっち)
どこからか懐かしい声がした。
その声に導かれるように、二羽の白いウサギが光の中を昇っていった。黒い犬たちは、口を開けたまま、ただ、黙ってその輝きを見上げていた。
 


散文(批評随筆小説等) 小屋 Copyright 草野大悟2 2014-07-13 23:01:37
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