永乃ゆち


あれはたぶん、あの世とこの世の境だったんだろう。






夕暮れに染まったけだるい空気の中。
全身が鉛のように重く
言葉を発するのも困難だった。

私は高い高い塀に囲まれた場所にいた。

その中心には古い民宿のような建物があり
私はそこで何かの順番を待って座っていた。

民宿の女将のようなおばあさんがそばに寄ってきて

『次はあんたじゃよ』

と、しゃがれた声で言った。

何が『次』なのか、分からないまま
酷く重たい体を引きずるようにしながら
そのおばあさんの後をついて行った。

木造の建物のはずなのに、連れて行かれたそこは
大きなガラス張りの部屋だった。

正面にドアが一つ。これもガラス張りだった。

よくよく見ると、そのガラスの向こうは
夕暮れ色でもなく蛍光灯の光る明るい病室だった。

ベッドには私が寝ていて
私の夫が泣きながら何かを叫んでいた。
声は聞くことはできなかった。

わたしは思わずドアに駆け寄って力いっぱいドアを開けようとした。
しかしドアはピクリとも動かなかった。
何度も何度も体当たりしたが、結果は同じだった。

『タカちゃん!!タカちゃん!!
ウチはここじゃよ!!タカちゃん!!ここにおるんよ!!』

喉が張り裂けそうになるほどの大声で
私は叫んでいた。しかしそれは声になる事もなく
よりいっそう体が重たくなるだけだった。
涙があとからあとから溢れ出た。

おばあさんが私に言った。

『あんたの亭主があんまり泣き叫ぶけぇ
順番早くしてやったんじゃよ。どうするんね。帰るんかね』

私は泣きながら頷いた。

『あんたぁ、我がままじゃねぇ。自分からこっちに来といて。
まぁ、初回限定Uターン特約があるけぇね。
あんたをあっちに戻せんこともない』

私はおばあさんにすがって泣いた。

『でも、ホンマにええんね?あっちは苦しいぞ。痛みもある。
それにあんたなんてアリンコと同じなんじゃよ?
あんた一人おらんこうなっても、誰も気にせん。
あんたの亭主もしばらくは悲しいじゃろうけど、その内忘れる。
人間は忘れられるからね。都合のいい頭をしちょるよ。
それでも、ホンマにええんかね?』

私は大きく首を縦に振った。

『しょうがないねぇ。初回限定Uターン特約施行するよ。
ただし、二度目はないよ?もし、もう一度あんたがここに来たら
二度とはあっちには帰れんよ?いいね?』

おばあさんはそう言うと、私の体を強く押した。
あれほど頑固だったドアがするりと開き
私は眩しい光の中に飛び込んだ。



目が覚めると、夫の顔が間近にあった。
夫の目からこぼれる涙で、私の頬も濡れていた。

私は白い壁の病室にいた。
さっきまで見ていた、あの明るい病室だ。

『タカちゃん。。。』

消えそうな声でそう言うと、夫は

『良かった。。。良かった。。。』

と繰り返して泣いた。



そうだ。私は。。。ビルの屋上から飛び降りたんだ。。。
精神を病んでいて薬が手放せない私は
子を産む事も諦めなければならなく
絶望していた。

それが理由かと聞かれたら、それだけではないような気もする。
心を病んだ私と一緒では、夫がかわいそうだ。
夫にはもっとふさわしい女性がいるはずだ。
子を産める女性が。。。

いろんな事を考え、袋小路に迷い込み
突発的に飛び降りたのだ。

けれど。泣き叫んでいる夫を見た時
自分のしたことの残酷さをはじめて理解し
夫と一緒に生きたいという思いが強く強く沸き起こったのだ。


私の体には何本ものチューブが繋がれており
酸素マスクをしていた。
ICUにいると夫は言った。

それからすぐに私はまた気を失った。


次に目が覚めた時は、個室に移されていた。
個室に戻ってからもいろんな薬剤の点滴や輸血をしていた。
実家の母が完全介護で付き添ってくれた。
下半身を粉砕骨折しお腹には四本の長いボルトが骨盤を固定する為
刺さったままだった。起き上がる事もできない。

足の感覚は全くなかった。動かそうと思っても動かせなかった。
しかし、リハビリの先生が毎日来て
できる範囲のリハビリをしてくれていたので
少しづつ感覚が戻って来た。

結局、3か月入院し、その後も1年半、リハビリに通った。
足には少しの後遺症が残った。そして、二度と走れなくなってしまった。

私の足と骨盤には未だにボルトが入っている。
取らなくても支障はないし、女性だし
あまりメスを入れたくないでしょう、とのことだった。



この出来事は十二年前の事だが
今でもズキズキとした痛みがあり、そのたびに自分がした
愚かな行いを思い出す。そして申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


そしてあの夕暮れ色の世界はあの世とこの世を繋ぐ
中間地点だったのではないかと思う。
『初回限定Uターン特約』なんてものがあるなんて知らなかった。


私は、助けられた命だ。たくさんの人に助けられた命だ。

あのおばあさん、私の為に泣いてくれた夫、完全介護をしてくれた母。
そして、私の血液となった誰かの血液。


死にたいと思うことがないかと言われれば嘘になる。
けれど、私は天寿を全うしようと思う。
それは、あれから十二年経って、今はだいぶ落ち着き
薬の量も減り、子をもうける事が可能になったからだ。

私は、一度死んだ。でも、たくさんの力で生き返った。
私は生かされている。
目には見えない大きな力で。


ここからがスタートラインだ。


いつか、夫との子どもを産むことが
私の夢だ。






自由詩Copyright 永乃ゆち 2014-07-05 03:39:13
notebook Home 戻る  過去 未来