サリンジャーとドストエフスキー   (現代小説と近代小説の断絶について)
yamadahifumi







 芸術というものにはある種の断層のようなものがある。そう思うのは、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を僕が読んだからではなく、小説を読んでいて、そう感じる所があるからだ。

 バフチンは正しくも、「ドストエフスキーの小説の主人公は、それまでに作者がやっていた事をしている」と述べていた。これはまさしく大切な事であり、僕はバフチン、あるいはフーコーの構造主義には重要な意味があると考えている。

 僕の実感だと、例えば、フローベールとかモーパッサンは普通に読めない。読んでいて何となく退屈だなあ、と感じてしまう。バルザックも優れた作家だが、どちらかというと古いなあ、と感じる。またユーゴーなどもそうで、僕はユーゴーを一冊もまともに読んではいない。

 多分、近代と現代の境目に位置するのはドストエフスキーであり、彼は最初で最後の、空前の大作家であったと僕は考えている。それ以前に彼に比肩できるのはシェイクスピアだ。僕はとりあえずの所、そう考えている。…では例えば、夏目漱石は近代作家か、現代作家かと言われると、僕はぎりぎり近代作家ではないか、と思っている。その辺りの事を少しばかり説明してみよう。


 僕が漱石を近代作家だと思うのは、漱石の「それから」の主人公、その悲劇というのは、主人公の自意識、知性によって起こるものではあっても、その悲劇は、自意識、あるいはその知性に取り込まれたものではない、と考えているからだ。これは説明を要するだろう。例えば、ドストエフスキーの罪と罰の極めて特徴的な点というのは、そこで起こるあらゆる物事が、全て、ラスコーリニコフの自意識を通して始めて意味あるものになる、という事にある。例えば、作者が机の上のコイン一つ取り上げるにしても、それはラスコーリニコフの自意識により、変容したコインなのだ。この辺りは画家でいうなら、印象派と写実派との違いとして比喩できるだろう。印象派にあたっては、全ての物事は画家の視点により変更を帯びている。それらの絵は、画家の視点によって改変されるが故に意味を帯びるのであり、そこで主になっているのは自然ではなく、画家の視点の方である。だから、ある意味、印象派の画家達は、自然を描いたのではなく、彼らの視点そのもの、それを描こうとしたのだと言える。これはドストエフスキーも同じで、ドストエフスキーにおいて重要なのは、まず何よりも主人公の自意識であり、そしてそれゆえに世界には何らかの意味が賦与される事になるのだ。従って、ここではモーパッサンやフローベールのような、世界を神の視点から見る、という写実的な方法論は取られていない。全てはラスコーリニコフの意識の中で起こる。しかし、その意識は外部から、反応を与えられる。…ではその外部とは何か?。もう何もかもを自意識の内に取り込んだドストエフスキー作品において、主人公の自意識の『外部』とは何に相当するのか?。これはドストエフスキーにおいても、極めて重要な謎として残った。そしてドストエフスキーはそれを作品の形として解消し、それに対する答えを与えた。この『外部』というのは極めて重要な問題を僕達に与えるが、それについては今は述べない。今はもう少し自意識の問題に触れよう。


 例えば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は明らかに現代小説だ。何故そうなのかと言うと、そこで起こる事は全て、ホールデン君の自意識の中でのみ意味を持つからだ。…実質、この世界はホールデン君には、大して意味のあるものではない。ホールデン君にとって、この世界は彼の意識が嫌厭する上でのみ意味を持つ何かなのだ。ホールデン君は世界を嫌う。世界を蹴り飛ばす。彼はふいに、どこかこことは違うどこかに行きたいと願う。だが、それが嘘だという事を彼は知っている。…この辺りは、罪と罰にやや似ている。ラスコーリニコフは人を殺した。それは彼にとって一つの旅だった。…ひどい旅だが。彼は自意識が、彼に見せる夢を破る為に斧を振り上げた。だが、夢は破れなかった。彼は未だに彼のままだった。人を殺しても、ラスコーリニコフはラスコーリニコフのままだった。彼は絶望した。だが、彼には自殺はできなかった。人には、自殺する事すら許さない悲しみというものがある。そしてラスコーリニコフはそれを自分の心中に感じた。何と、やりきれない事だろう。殺人者もまた、一人の人間であるとは。彼の心を悲しみがよぎったが、彼はそれをどうにもする事ができなかった。勝利したのは、ラスコーリニコフの意識、その頭脳ではなく、彼の無意識ーーー彼の夢だった。彼は以前、夢の中にとどまっていたのだ。人を二人殺してにも関わらず。


 同じように、ホールデンは急に西部へ逃げ出す事を企てる。…でも、それが嘘だという事は、彼自身分かっている。この辺りはラスコーリニコフと同じである。全く。両者とも、自分の自意識、その精神、知性に疲れて、そこから逃げ出すことを企てるのだが、しかしその行為が嘘っぱちだという事も知っている。しかし、それが嘘だと知っても、彼らはそう考える事をやめられない。何故だろうか?。それは人は、「どこにも行く所がなくても、どこかに行かなくてはならない」からだ。人はどこかへ行かなくてはならない。人生とは旅である。だが、どこに行くのも嘘だと彼らは知っている。彼らは平凡人のように、夢にたぶらかされてはいない。彼らは夢が嘘だと知っている。しかし、彼らは嘘だと知っても、それをやらざるを得ない、あるいはそれをやろうとする。…ラスコーリニコフは二人の人間を斧で殺す。ホールデンは西部へ行く事を企てる。だが、ホールデンはその途中で、それを妹のフィービーに止められてしまう。フィービーは、自分も一緒に西部に行く、と言い張る。ホールデンはそれを止める。彼は結局、それが馬鹿げた嘘だと知っていたのだ。だから、ホールデンは妹を制止する。こうして、ホールデンは再び、彼自身が嫌っていた世界に戻ってくる事になる。ここでは、ラスコーリニコフとホールデンとのはっきりした違いが見られる。ラスコーリニコフはある線を越境したが、ホールデンはその手前で引き返してきた。…では、この違いは何だろうか?。それはおそらく、作者自身の悲劇に由来する。ドストエフスキーは越境した悲劇を、そしてサリンジャーは越境しない悲劇を持った。しかし、二人とも自己に誠実な作家であった事は間違いない。この二人の違いについては、「運命」という言葉で決着しておくしかないだろう。とりあえず、今の所はそうしておく。


 …二人の作品の劇は、このような構造を持っていた。二人の作品の主人公はそれぞれ、ニーチェの言う所の自由精神を抱いている。そしてそれが自意識と手を取り合っている。バルザック達にとって、劇、あるいは物語の構造とは、この社会における卑小な一個人における劇だった。その劇とはどのようなものだったか。それはいわば、マクロな社会という構造の中での、卑小な個人に目を向けたものだった。その劇の中で個人はもちろん、様々に考え、行動し、恋愛し、結婚したり、あるいは人を殺したり、犯罪をしたり、まあ色々な事をする。だが、それらはあくまで、卑小な個人にとどまる。では、ドストエフスキーの作品はどうだろうか。もちろん、ラスコーリニコフもこの社会に比べたら卑小な個人である。いや、だが、本当にそうだろうかーーー。ラスコーリニコフは、この社会の全ての構造、機能をその脳髄に宿した上で、それから運動するのである。だから、バフチンの語った事は正しい。ラスコーリニコフは、それまでの作者がしていた事をしていたのである。この世界を全部眺め、そしてそれを神の視点から描く事ができるというのは、それまで、作家の仕事だった。それは作家の特権だった。だが、今やそれは主人公の機能として内蔵される。では、この時、この作者ーーードストエフスキーはいかなる機能を有しているか?。この問題はあまりに難しすぎるので、次の機会に譲りたい。…とにかく大切な事は、ここでは、ラスコーリニコフがこれまでの作者の特権を抱いているという事である。彼は全世界を包含した所からスタートする。つまり、これまでの全ての作品が決着する所、終わる所ーーー個人が社会に融和する所、そのラストの点からラスコーリニコフは歩き出すのだ。そして、この歩みは重い。なにせ、ラスコーリニコフは全世界を引きずって歩いているのだから。

 
 そしてこの事は僕達読者に否応なく、共感を呼び起こす。今人はバルザックよりも、ドストエフスキーの方を熱心に、あるいは共感を持って読むだろう。何故そんな事が起こるのかというと、上記のような作品の構造にその理由がある。それはサリンジャーでも同じである。主人公は意識の中に世界を取り込んでいる。そして、それが何故そうなるのかと言うと、一言で言うなら、時代が変わったからだ。世界がそうなったからだ。その大きな理由はもちろん、メディアの発達によって、僕達一人一人が全世界で起こっている事を知る事ができるようになった、という事にある。ドストエフスキーの出現には、新聞の発達と大きな関わりがあるだろう。個人が全てを知る事ができるというのはメディアのおかげである。そして、その根っこにあるのは、この大衆消費社会、その大きなメカニズムである。つまり、世界は日に日にますます大きな、巨大なメカニズムの機械に化け、そして個人はますます卑小に、小さくなりつつある。この時、個人の存在は社会の大きさに比べて、極小にまで小さくなっていく。だがそれに反比例して、個人の意識は、テレビ、ネットなどの拡大により、より巨大に、そしてより世界的になっていく。そしてこの逆説、矛盾は僕達にどこかで断絶を強いるに違いない。つまり、僕達は「存在」としては卑小なのだが、「意識」としては極大なのだ。そしてその矛盾は、今の、口だけ大きく、本人は何もする気がないネット民の姿などにも象徴されている。彼らは知っているのだ。意識としては彼らは神にも等しいにも関わらず、現実には彼らは無だという事を。彼らはおそらく、現実の自分の姿を知られるのを恥と感じるだろう。彼らは自分達が存在しないと思い込んでいる。だからいつも、彼らは言葉だけなのだ。

 
 …だが、悲劇はそれを許しはしない。ラスコーリニコフには肉体がある。そして、この肉体には悲しみがある。肉体とは何だろうか。存在とは何だろうか。それは自意識に取り残された形骸である。だが、この存在は、この意識に訴えかける。この卑小な存在はやがて、それ自身を主張し始める。ラスコーリニコフは人を殺した。そして、その罪悪感にさいなまれはしなかった。彼はあらかじめ、ありとあらゆる事をその精緻な脳髄により計算してから始めていた。だから、彼は罪悪感からは免責されていた。…されていたはずだった。だが、彼は彼の肉体を、彼の存在を忘れていた。だから、彼は全てを忘れていたのに、しかし、忘れる事を、その肉体は許しはしなかった。彼の脳の中で、意識の中で、殺人は正当だった。正義だった。どこにも盲点はなかった。…しかし、彼の意識の外側に、彼が置き去りにしていた肉体が、その存在があった。そしてその存在こそが「人間」と呼ばれるものだった。この「人間」は彼の意識に反発した。…だから、彼は自分の罪を誰かに語らなければならなかった。ラスコーリニコフは自分自身に堪えられなかった。だからこそ、彼はその罪をソーニャに語ったのだ。


 ドストエフスキーの重要な作品はこのように、いわば意識と存在との矛盾、その相克に支配している。彼ら登場人物達はみんな、本当に望んでいるのとは逆な事をしてしまう。彼らは存在を置き去りにして、意識だけで走り出す。だがやがて、存在はこの意識に追いついて、様々な罰を下す。そしてこの意識と存在との差こそが、ドストエフスキーの物語の道程である。…ある点から、物語とはこのように全て、主人公、あるい登場人物達の内部、その頭脳と存在との中で行われるものへと移行した。そしてこの点が、彼が現代作家の始まり、あるいは真の意味でのポストモダンである所以だと思う。彼は小説というものを、全て登場人物の内部の中での劇とした。従って、ドストエフスキーの作品において登場人物達が反発したり同和したりする様は通常の物語とは全く違う意味を持っている。彼らは単に人を好きになったり、嫌いになったりはしない。その「好き」「嫌い」は常に二重化されている。僕は最近思うのだが、単なる「恋愛小説」とか、お話としての単なる小説などというものは存在しない。人間そのものが極めて難解で複雑であり、そして二重であり、矛盾しているにも関わらず、単に「好き」「嫌い」で成立する劇というのは、何か重大な欠落がある。…僕は最近そのように感じている。


 以上が、ドストエフスキー作品の劇の構造だ。そして、それが破綻する以前でとどまったのが、あるいはチェホフであり、サリンジャーであると言えるのではないか。チェホフの「退屈な話」というのは、外面の見かけとは違い、青春小説の傑作だと僕は思っている。だが、チェホフもサリンジャーと同じく、ドストエフスキーのような長大な劇の前でとどまり、引き返してくる。そういう違いがあるのではないか、と思う。カフカはタイプは違うが、彼もまた引き返してくる。彼らが留まっている壁とはなにか。あるいは彼らはどういうラインを越えたのか、それはまた別の機会に考えたい。

 
 以上のような事は現代で小説を書く上で重要な要素になってくるのではないか、と思っている。小説を書くのに理論が関係ないというのは、僕は全然嘘だと思っている。小説家が数学をする必要は特にないが、何らかの意味で現実を論理的に考えざるを得ないのは確かだ。それをこうして言葉に表す必要はないだろうが、しかし、考える事はどっちにしても必要であるように思える。とりあえず、この論考はこれで終わりにしたい。現代小説においては、以上のような事が大切であるように、僕は考えている。それでは、また。

 


散文(批評随筆小説等) サリンジャーとドストエフスキー   (現代小説と近代小説の断絶について) Copyright yamadahifumi 2014-06-26 19:04:40
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