可能性の地獄
yamadahifumi

  
 現代人が陥っている状況を『可能性の地獄』という概念で説明してみたい。これは僕が作った概念で、誰かのものを盗んだ覚えはないのだが、似たような事を言っている人はおそらく他にもいるだろう。まあ、とにかく始めてみよう。


 吉本隆明が村上春樹に対する適切な批評で、村上春樹の作品の『僕』のその問題点についてあげていた。この村上春樹の『僕』、その恋愛の描写で問題となっている点とは、この『僕』は目の前のその『女性』を確かに優しく愛する事はできるのだが、しかし、どうしても、その目の前の女性ーーーその、独自性としての『人間』を愛する事はできないという事だ。これは説明を要する。村上春樹の主人公の『僕』は今流に言うと、リア充の最たるものである。そして、このリア充は目の前の女性を、女性の中の一人として、優しく丁寧に愛する事はできる。村上春樹の作品が女性に受けるのには、そういう事が大きな理由になっているだろう。だが、更に大切なのは、この『僕』が愛するのは、別にその『目の前の』女性でなくてもいいのだ。つまり、この女性には、既に『代わり』がいる事が最初から、『僕』の中でも想定ーーーあるいは少なくとも、そのように感じられている。目の前の女性は、他の女性に将来、あるいは過去に渡って、代わってきたし、代わる事が可能だろう。つまり、この村上春樹の小説の主人公は、『誰か』を愛する事はできるのだが、しかし、『その人』を愛する事はできない。その人間の個別性を愛する事はできないが、普遍的な女性の一人としては、レディーファースト的に、西欧流に優しく丁寧に扱う事ができる。見識の低い女性読者であれば、この村上春樹の描写に陶然となるかもしれないが、もしここで陶然となるだけなら、それは問題の本質を見逃している事になる。ここで大切なのは、村上春樹の主人公『僕』ができるのは、『女性一般』に優しくする事であって、『目の前の人間』を愛する事ではない。だが、あるレベルの女性読者ーーあるいはそのような女性からすれば、この「自分」を女性一般とイコールして考えてしまう。つまり、ここでこの女性読者は、自分自身に夢を見る。自分は今、愛されているのだ、と。自分はリア充なのだ、と。だが、この女性読者は、村上春樹が記しておいたもう一つの大きな問題を見逃している。主人公『僕』は女性を愛するが、決してあなた自身を愛しはしない。だからこそ、村上春樹の作品には、あのように優しく丁寧で、なおかつ優雅、甘美でありながらも、その後ろにはどこか退廃的で空虚な空間が流れているのだ。そしてこの二重性が村上春樹の本質であり、そしてこの本質こそが、僕達の本質でもある。では、問題をもう少し先に進めよう。


 可能性の地獄、と僕が呼ぶ概念も、村上春樹が描いたそういう事に対応している。そして、これは恋愛だけにとどまらない。だが、今はもう少しとどまって、この実例について考えてみよう。

 
 ミシェルウェルベックという作家がいる。僕はこの作家の『素粒子』という作品を先日に読んだのだが、彼はこの手の問題を村上春樹よりもはるかに、厳しく、胸を突く取り上げ方をしている。彼のこの問題の扱い方は全く容赦無い。
 作中の、中年に差し掛かったクリスチヤーヌという女性は次のようにため息をつく。


 「(略)でもしがみつくしかない、なぜなら愛されたいという気持ちを捨てることはできないから。女は最後までその幻想の犠牲となるのよ。一定の年齢を越えれば、女にできるのは男のペニスにすり寄ることだけ。愛されることはもう二度とありえない。男ってそんなものだから。仕方ないわね。」


 ここで語られている問題は非常に悲しいのだが、しかしこの問題は男にも起こっている。そして更に、いや一番嫌な事は、このクリスチヤーヌという女性が過去においても、『愛された事』はただの一度もないという事。彼女が若く、性的魅力に満ちあふれていた時にも、男達はただ、彼女の体の上を通行していっただけだった。そして、それらの男も様々な女の上をいわばリア充として通行していったのかもしれないが、しかしその男たちも年を取れば、またこのクリスチヤーヌのように嘆かざるを得なくなる。こういう男は年を取ると、ジムに通い、健康食品を摂取し、若々しさを保とうとする。だが、それで何が得られるだろう?。誰にとっても、誰もが交換可能である。だが、人間が自分で自分を振り返った時、そこには一貫した自意識が流れている。自分という個体的存在というのは、純粋に時間的なものだ。三歳の僕と三十歳の僕と八十歳の僕との間には、連続した何かがある。そして、それこそが『僕』であろう。だが、それは他人から見ればそうではない。三歳の僕をかわいがっていた人間から見れば、三十歳の僕には何の意味もない。そして三十歳の僕を愛してくれた僕の恋人からすれば、八十歳の僕は単なる動くガラクタに過ぎない。これは悲しい事だが、しかし真実だ。だがしかし、僕が僕を見る時、僕はやはり僕である。八十歳であろうと、三十歳であろうと、そこにいるのは僕である。つまり、『僕』という個体を認識するのは僕ただ一人であるのにも関わらず、他人から見たら、僕とはその時期とか地位とか、持っている金の大小やイケメン度合いにより左右される何かである。他人にとって僕は複数、あるいは無限に存在するのだが、しかし僕にとってだけ僕は単一である。そしてこの事を僕達はどう変えようもない。だからこそ、今の世の中はせいぜい、美人かイケメンか、金を持っているのかいないのか、そんな事しか問題にならないのだ。つまる所、人間=自己などというものには、(自分から見る以外)何の価値もないので、僕達は出来る限りその外面を取り繕おうとする。そしてそう割り切ってしまえばそれは楽だが、しかし、そうもいかない。僕らはクリスチヤーヌのように、誰かから『愛されたい』と欲する。そしてこの時、クリスチヤーヌが本当に自分自身を愛して欲しいと願う時、悲劇が起こる。クリスチヤーヌはもうただ男の性器にしがみつくしかない。そんなものはただのくだらない棒きれである。そしてそう知っていたとしても、それを止める事はできない。なぜなら、彼女は未だに誰かから愛されたいからーー少なくとも、愛されているという幻想を得たいからである。そしてそれは男も同じ事である。こうして村上春樹的問題は、もっと本質的かつ、あまり見たくもないような答えに僕達を連れて行く。


 僕は最初に『可能性の地獄』という概念を提唱したので、この事についてもっと広げてみなければならないだろう。以上の村上春樹、あるいはミシェルウェルベック的な問題というのは全て、『リア充的』な問題だった。それらの人々は皆、交換可能な他者の間をただ通行していく、自分自身も交換可能な一人である。自分にとって他人が交換可能な事は好都合だが、他人にとって自分が交換可能な事は不都合である。だが、この好都合だけが僕達に微笑む事はない。真実は常に、僕らのその身に、苦しい焼き印を施す。こうしてリア充は苦境に立たされるが、しかし非リア充も同じ事である。僕はその事を次に少しだけ書こう。


 非リア充。それはどういうものだろうか。余り人と接触せず、友達も恋人もおらず、そして家に閉じこもって、ネットやゲーム、あるいは二次元の世界にハマり込んでいる。そういうものだろうか。この世界では一応、友達はいないよりも沢山いたほうがよく、恋人もいないよりいた方がいい(それも美人、イケメンなら尚可)というアホらしい価値観になっているので、そういう事も一蹴しておく必要があるだろう。

 
 僕はどちらかという非リア充派なのでよくわかるが、非リア充というのが、他人や、人間に対して真に幻滅した存在でないという事は間違いないだろう。人が孤独になるというのはきわめて難しい、あるいは不可能な事で、一人が好きな人というのは大抵、音楽や映像、あるいはテレビ、ラジオ、インターネットなどによって常に他人のようなものと触れている事を好む。そうやってその人間は、常に他者の中に身を置いているとも言える。そして更に大切な事はこの非リア充というのは、永遠に可能性を延期した存在だという事だ。この事を次に説明しよう。

 
 僕達が誰かと出会い、その人間と付き合い、その人間と友達になるというのは一種の可能性の消費であると考える。人は若年期には誰もが夢を見る。夢とは可能性の別名である。人は可能性を想起し、憧れる。『自分はどんな素敵な人と出会えるだろうか?』。だが、現実に出会う人間は常に小心翼翼たる凡人である。人間というのは言ってみれば、全て凡人であるし、天才というのも、あくまでも遠くから見たら輝いている存在であり、近くに行けば、彼らも凡人と同じ事をしているのだ。だから、僕達は幻滅する。だが、僕達の幻滅を救ってくれそうなものは一つだけあり、それはメディアが僕達に提供する様々な像である。俳優、タレント、芸人、アニメ、声優、その他。様々な像があり、それは正に僕達の可能性の具現化であるようにも見える。画面の中の人々はいつもキラキラと輝いているように見える。だが、それはただそう見えるだけである。結局の所、全ては同じ事だ。


 リア充のように、誰かと出会い、あるいは別れる事は、非リア充には無駄な、可能性の消費として見える。つまる所、僕がA子と付き合ったとしても、僕はA子よりも更に素敵な、B子との出会いを、A子と付き合う事によって失っているのではないか、という懸念に襲われる。そして、この可能性の問題は二つの態度を生む。一つはA子→B子→C子→D子……と、順に違う女性の間を渡っていくというものだ。(もちろん、A男、B男でもかまわない。)だが、その綱渡りはいつまでも続き、次第にこの人間は自分の内に虚無と倦怠を見出す事になるだろう。なぜなら、この男が必死に努力して、より素敵な女性、より素晴らしい女性を目指したとしても、その美しい珠にはいつもどこか一つの傷が見つかってしまう。理想の女性は、くしゃみの仕方一つで、理想を体現したものではなくなってしまう。こうしてこの男はまた別の女性を求めて旅立つが、しかしこの旅には際限がなく、そしてただ後には徒労感が残るだけである。そしてこういう人間が自分は『リア充』だと威張った所で、それはむなしい。そしてこういう人間は自分の空しさから逃れようとする為に、このように吠え立てたりする。この旅に終わりはないが、しかし得られるものはなに一つ無い。なぜなら、こういう人間は、他人と接触し続け、そして常にその問題は他人に由来すると考えているが、しかし実はその問題は彼の脳の中にあるからである。彼がもしある日、世界最高の異性を発見するにしても、この人物は翌日にはその異性に対して飽き飽きするだろう。この人物はその時、こう独語するかもしれない。「完璧すぎる女性というのも問題だ。女とはもう少し不完全であるべきだ」。そしてこの徒労の旅は続き、そうして人生は暮れていく。彼の手には何一つ残らない。何一つ。


 非リア充、つまり、可能性を浪費する方法としてのもう一つの態度は上記とは違ったやり方を選択する。こちらのタイプでは、この人物は、世界の可能性を最初から放棄する事を選ぶ。つまり、原理的に考えるなら、A子よりはB子の方がいい、でも、自分がB子と付き合える可能性はないし、その為に努力するのも面倒だ。だとすると、ああ、もういい。自分は二次元の方がマシだ!、という事になる。こちらがリア充よりいいという事もないし、悪いという事もない。ただ、こちらでは、いわば、他人の為に自分を浪費する事にたいする否定性がより強い。つまり前者ーーリア充においては、他人を手に入れる為に、自分は駆けずり回らなければならないのだが、こちらのタイプでは、駆けずり回る努力が徒労に思える為に、この物は最初から駆けずり回らない。そして、ゆっくりと老いていく。この人間はあらゆる可能性が、僕達の目の前に提示されている為に、逆にその可能性を否定する方に走るのだ。言ってみれば、スーパーで色とりどりの、実に様々なカレー粉(なんでもいいけど)が売られているとしよう。すると、あるタイプの人間はその一つを手に取り、そして家を帰ってそのカレー粉を使ってカレーを作る。そしてそれがうまかったりまずかったりするだろうが、このタイプの人間は、「よりうまくなる可能性」を信じて、翌日にはまた別のカレー粉を手に取る。そしてそうやっている内に、だんだん自分が何をしているのか、元々何をしたかったのかがわからなくなってくるだろう。自分は本当にうまいカレーを作りたいのか、それとも単に、新しい、珍しいものに触れたがっているだけなのか。テレビで紹介されるおいしそうな料理屋に殺到する人は、別にうまいものを求めに行っているのではない。そうではなく、彼らはもっと形而上的に、新しいもの、皆の間に流行っているものに、自分も参加する為に行っているのだ。実際うまいかまずいかは二の次である。こうして、行動は、その行動の可能性、いや、その行動の形而上的意味付けそのものによって無価値になっていく。そして答えはわからなくなり、残るったのは無為に費やされた自分という年月の積み重なりだけである。


 そして一方の非リア充派は、先ほどのスーパーの例で言うなら、目の前に山ほど積まれているカレー粉を見て、「何かめんどくさそうだし、今日はパスタにしとこう」と決断するタイプとでも言えばいいだろうか。この人間は、可能性があまりに無限に開かれている事に対してうんざりして、そこから逃げ出す。そして、どの可能性をも消費する事がない。従って自分を、あの「リア充」達のように、せかせかと動かさなくても済むのだが、しかしそうする事によって何かが浪費されている事に代わりはない。どちらがいいという事もないのだ。僕達にとって、一番厄介な問題は、あらゆる可能性が僕達に明示されているがゆえに、僕達自身がその可能性の中に埋もれてしまうという事だ。いくらでも、他人は代えが効く。だが、自分は代えが効かない。だがしかし、その自分とはいつも、世界のの中にあっては他人である。君の恋人にとって君は交換可能、君の友人、君の会社にとっても君は交換可能。だが、君にとって君は交換不可能。これは厄介な問題だ。そして僕はこういう現代の状況を『可能性の地獄』という名で呼んでいる。これでとりあえずはこの概念については少しは説明できたように思う。


 そしてこの『可能性の地獄』は、社会が高度化し、人間が普遍化するに従ってますます大きな問題となってきている。例えば、家族というのももはや、交換可能な領域に突入してきた。かつては親にとって子供は、どんなにその子供が愚かでも交換不可能なものだったが、最近ではそうだとは言いづらくなってきている。例えば、子供が欲しいが父親は必要ないと考えている独身女性が精子バンクに行き、そして精子を一つチョイスして、そうして子供を作る。してみると、この子供は何だろう。…そして、精子にも等級があり、例えば、法政大出身よりも東大出身の方が価値が高い。こういう状況を考えると、この子供はその生誕の最初から、何か偶然的な、一般的なものとして存在する事を余儀なくされている。まだ、『橋の下で拾ってきた子供』の方がはるかにマシだし、愛着も湧くだろう。別にそういう事が間違っているとかおかしいとか言うつもりは毛頭ないのだが、しかし、僕らが考えなければならないのはこの子供のアイデンティティはどうなるのだろうか?、という問題だ。もしこの母親が、選びに選び抜いて、あるいは金をかけて、ノーベル賞受賞者の精子で子供を作り、そしてその子供に一身の期待をかけたらどうなるだろう?。僕がもしこの子供だとしたら、自分が何故生まれてきたのか、自分の存在が何なのか、という問いに直面せざるを得ないだろう。親は、自分に、一人の一般的存在として社会を駆け上がる事を要望しているが、しかし、自分とは独自の存在である。二つは矛盾している。そしてこの矛盾はこの人間をどのような場所に導くのだろうか?。

 
 こういう問題はもちろん、何に対しても適用できる。就職する会社に対しても、その会社の待遇ばかりがこうも問題になるのは要するに、最初から「どの会社でも同じ」という先見的観念が僕達にあるからであり、また会社の方でも「どの人材でも同じ」という観念が先にあるからである。どちらも交換可能なものとして存在しているから、表面的な条件面のみが問題になる。あとは些事である。


 これまで、可能性の問題、あるいは交換可能、不可能の問題について扱ってきたが、とりあえずこれぐらいで締めくくりにしたい。現代人にとっての最大の不幸とは、世界に対してどのような幸福も可能であると教えられている点にある。僕達は画面の中の人々を見て、そこには理想の生活、理想の幸福があるような気がしている。筋肉ムキムキで美女を抱いているスポーツマン。そして育児をしながらもモデル業をしているきれいな女性。世界には様々な幸福のモデルケースが存在しているが、それは映像の中にあり、現実には存在しないという理由によって、僕らは人生の中でその失意、あるいは不幸のどん底に落ち込んでいく。そして世界では、このモデルケースに一心に走って行くものがおり、また、このレースから脱落したと感じて、最初からすねて、脇道でお茶を飲んでいるものもいる。しかし、どちらも決して理想の幸福に手がとどく事はない。彼らの人生は失敗だった。不幸だった。そしてその思いはルサンチマンに化け、そして攻撃的な意志が世界を包む。世界中で今、ナショナリズムが昂揚している背景には、そういう事も多分に関係していると僕は思う。不幸は、他人への攻撃意志と転化され、そして実際にその攻撃は始まる。もう嘆いても遅いのだ。賽は投げられた。こうして世界は己の欲望を律する事ができずに、破滅に進んでいく。


 『可能性の地獄』。その問題は今の僕達を包んでいる。僕達にはあらゆる事が可能なのだが、しかし、あらゆる事が可能だという理由によって、僕達にたった一つ禁じられた可能性がある。それは僕達自身がオリジナリティを、その独自性を、そのアイデンティティを確保するという事である。以前、スマップの歌に「ナンバーワンにならなくてもいい 元々、特別のオンリーワン」という歌詞の歌があったが、あれは間違いだった。僕達にとって一番困難なのは、ナンバーワンになる事ではない。そうではなく、それよりもはるかに困難なのは、オンリーワンになる事なのだ。そしてこれは、ナンバーワンになる事よりもはるかに難しい難事業なのだと断言する事ができる。他人と差をつけるために奇抜な服装を身につける大学生などは、正にそうする事によってどんどんと他人に似ていく。そんな事で他人と差をつける事などできはしない。なぜなら、雑誌で『他人と差をつけるためのファッション』などが紹介されていても、その雑誌を読んでいる人間はゴマンといるのだ。ジョークもここまでくると滑稽である。


 今の僕らは皆、それぞれに根本的な同質性、交換可能性を感じている。そしてそれゆえに、僕達は表面だけを取り繕おうとする。そしてそれにより、僕らはますます互いに区別のつかない存在へと転化していく。リア充、非リア充。どちらも、自分自身になる事はできずに、虚しく時を過ごす事となる。他人に愛されたいと思う人間は、他人が自分を愛する事は決してないという事を知らなければならない。世界に溢れているのはあくまで、よくできた悪夢であり、現実ではない。僕の考えでは、現実主義者というのが一番夢を見ている存在だ。彼らはもはや、現実というのがある点から一つの悪夢に代わった事に気がついていないのだ。


 さて、これらの事が僕の言う『可能性の地獄』という概念に相当する。だが、それに対する処方箋は僕は知らない。僕は医者ではなく、どちらかという患者側の人間なので、薬に関してはそれぞれが発明するしかないだろうと思う。世界は今、真っ二つに矛盾しているが、これを認識しないものは、それそのものによって自身を二つに引き裂かれる事だろう。とりあえず、今の所、僕の考えている所はそんなものだ。また機会あれば新たな論考も書くかもしれない。それまでは、では。


散文(批評随筆小説等) 可能性の地獄 Copyright yamadahifumi 2014-06-13 08:43:55
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