ヤマダヒフミの消失
yamadahifumi

 



 彼は「ヤマダヒフミ」という名前でネット上に投稿していた。投稿する内容は、詩、小説、批評などであり、彼は自分で文学に対するある程度の造形があるのだと考えてた。彼は日常生活では、桐野龍一という一人の薄給のサラリーマンだった。彼は月に二十万円いかない給料で、五万円のアパートに一人暮らししていた。彼には恋人もおらず、また友人もほとんどいなかった。彼は先月、三十才になったばかりで、彼自身その事を痛切に感じていた。三十というのは、人間にとって節目の年である。それは、歴史からこう宣告されるようなものだ。「お前ももう若くはない」。

 
 桐野は満たされた生活を送ってはいなかった。それは正に、欲求不満の連続だった。彼は常に、その尊大な自尊心、ないしはその大きな虚栄心を自分の中に感じていた。今の彼は、それが嫉妬心となって外側にほとばしるのをなんとかこらえていた。彼は、その自分のエネルギーを自分で制御するのに手一杯だった。だが、時々それが統御できなくなる事もあった。そういう時、彼は酒を飲んで、大声で壁に向かって叫んだりした。…その翌日には、大家から電話が入り、「隣人からクレームがきている」と言われた。彼はストレス発散の方法を別に考えなくてはならなくなった。

 
 「ヤマダヒフミ」という彼のネット上の人格は、桐野の満たされない心を象徴する何かであった。彼はヤマダヒフミという人格になりきって、小説、批評、詩を書き、そしてそれをインターネットを通して世界に送り込んだ。それに対する視聴者の数は決して多くはなかったが、しかし、彼にとってそれは、そのみすぼらしい実生活よりははるかにマシなものだった。彼の元に来るのが、批判であろうと賞賛であろうと、それは少なくとも、現実生活のあの濁った、薄ぼんやりとして半透明な、是か非かわからない曖昧な雰囲気の空間ーーそんなものよりはまだマシなはずだった。だが、人が年を取っていくのはそのような空間での事なのだ。人は、自分が世界のどの位置にいるのかも知らずに、ただわけもわからず様々なことを喚きながら、老いていく。そして、桐野もまた三十の年になっていた。彼は、自分は既に世界に見捨てられたのではないのか、と次第に考えるようになった。自分はこの世界に全然存在していない『無』であり、そしてその『無』としてこの世界に儚く消えていくのではないか?。彼のその懸念は、三十の年になって、急に現実味を帯び始めた。


 彼の現実生活ーーーサラリーマン生活は実に貧相で惨めなものだった。彼はただ毎日、会社に行って与えられた業務をこなすだけのロボットに過ぎなかった。それも、いささか、出来の悪い。彼は会社での飲み会にも出席せず、また同僚の誰ともプライベートな関係を築いてはいなかった。とはいえ、彼の会社の仲間内との関係は最悪のものという事でもなかった。彼は会社で、同僚や上司と世間話をするぐらいの能力は持っていた。しかし、それはあくまでも世間話であり、それはただ単に会社で業務するのに、それぞれが支障ないようにするための潤滑油のようなものだった。だから、桐野にとってまっとうな人間関係は全くといっていいくらいなかった。彼は孤独で不幸だったが、その事に対する一筋の誇りのようなものを持っていた。自分自身は何一つ成し遂げていないにも関わらず、『自分は周囲の人間とは違うんだ』と考えていた。だが、それは現代人一般が皆考えている事でもあった。こうして、彼は、二十一世紀初頭に生きる人間としては、極めて凡庸で、そして愚かな人生の道をしずしずと一人で歩いて行った。


 彼は不幸で、そして愚かであった。彼の元には、どんな人間関係も存在せず、温かな血も存在せず、あるのはただネット上の架空の人格のみだった。そして、そんな人格などが、彼に何一つもたらさない事も彼は知っていた。しかし、桐野はどうする事もできなかった。なぜなら、彼はもうとうに、現実の内で幸福になるという幻想を捨てていたからーー。彼は、現実なるものが何なのか、人生の早い段階で知るはめになっていた。自分の親友の密かな自分への陰口、そして自分の恋人が自分の事を一ミリ足りとも理解しておらず、また理解するつもりもなかったというその事実。それらの些細な事実だけで、桐野に現実を捨てさせるには十分だった。こうして彼は孤独になった。こうして、彼はネット上で物を書き散らすはめになった。しかし、そんな事をした所で、失われた現実が戻ってくるはずはなかった。そして彼は三十になり、またも袋小路に陥った。誰も自分を見てくれない。誰も自分を評価してくれない。だが、他人にその身を捧げられないような人間が他人から評価される事などはあるはずもない。あるいは、例え、そういう事があったとしても、桐野の天邪鬼は、その彼に向けられた優しい手さえを払いのけるようにできていた。彼は全ての事に反逆したかった。従って、彼は彼を幸福にしてくれるはずの、その優しい手にさえも反逆しなければならなかった。そしてこの事が、彼の愚かさの中でも最大の愚かさであった。


 だが、少なくとも彼は人間だった。いや、少なくとも彼はそう思い込んでいた。ただ、そうーー彼はそう思い込んでいた。


 桐野は街の雑踏のただ中にあって、不思議な感覚に陥る事がたびたびあった。この人達は一体、何だろう?。この人達は一体、どうしてこんな風に生きているだろう?。この人達は何を考えてーー。そう考えて、彼は一種の暗い気持ちに陥った。なんだろう?、この世界は。僕にとって何の意味もないこの世界とは、一体何だろうか?。…だが、彼は密かに知っていたはずだった。彼にとって世界が何がしかの意味を持つにしても、世界にとって彼は何の意味も持たないという事が。だから、彼は沈黙した。そして、彼にもう話す事など一つもなかった。世界にとって彼は不要であるが、彼にとって世界は必要だった。そしてその非可逆の関係は決して変わる事はなかった。それだけは、彼の感じていた事の中で、ただ一つの真実だった。彼はこの歴史の波、そしてこの何十億の人の群れの中では、踏み潰される蟻の一匹よりもはるかに脆弱で、情けない存在なのだった。そして今、彼は世界によって踏み潰されようとしていた。そしてそれは当然、避ける事のできないものだった。


 桐野はある日、突然に思い立って、自分の「ヤマダヒフミ」のアカウントを全て消した。彼は三十才になっており、もう何かを決断しなければならない年になっていた。『もう、全ては終わりだーー』。彼はそんな事を呟いていた。彼は色々な投稿サイトに登録しておいた『ヤマダヒフミ』のアカウントを順番に、一つ残らず消していった。それは正に、彼の過去、あるいは彼の全てを消すような行為だった。彼は今や、臨界点を越えたのだった。人生の臨界点をーー。そして翌日、彼はナップザックを一つ持って、アパートを出で、東京駅へと向かった。彼はしばらくは戻ってくるつもりはなかった。家賃は三ヶ月分、先に振り込んでおいた。彼は自分がどこへ行くのかは分からなかった。しかし、どこかへ行かなくてはならなかった。こんな事はくだらない。自分探しの旅だと?。彼は前から、『自分探し』などというものを軽蔑し、馬鹿にしていた。そしてその軽蔑は正当でもあったが、しかし今、彼自身がそうしなければならない立場に追い込まれていた。人生は不毛であり、ネットでの人とのつながりも同じように不毛だった。小学校の頃の教師は子供達に「夢を持て。将来を高い所に見据えよう」と教えたものだったが、しかし、夢は覚めなければならない。ヤマダヒフミーー桐野はもはや、何一つその手に持っていない、ただの凡庸な中年男へと変わろうとしていた。彼にはその事が許せなかった。だが、人生とは結局、そんなものだ。彼は今、東京駅の新幹線乗り場で新幹線を待っていた。彼はとにかく北へ行こうと思っていた。北へ。それは哀れなロマンティシズムだったが、しかし彼はそのロマンティシズムに従った。彼はそうやって出かけた。彼はそうして旅に出た。そして、彼がこれからどこへ向かうのかは、彼自身にとって未知だった。だが、とにかくも彼は出かけた。そして、彼が元いた所に再び帰ってくる事はなかった。


 …ちなみに、彼がその全てを置いてきたと言ってもいい、ネット上の「ヤマダヒフミ」のアカウントが消失した事に、投稿サイトのメンバーの何人かは気づいた。だが、そのメンバーは、誰もその事について言及したりはしなかった。結局の所、ヤマダヒフミというペンネームの人間が投稿した作品はどれも凡庸なのものであるし、それに彼らにとってヤマダヒフミなどというアカウントは取るに足らないものだった。人は自分が理解される事を欲しても、他人を理解するのにはそれほど乗り気ではない。そして他人が自分にとって大切だと感じられるのは、他人が自分を理解しようとしていると感じるからこそなのだ。だから、彼ら、ヤマダヒフミの消失に気づいたメンバーは、ヤマダヒフミが消えた事に対して大した感慨も催さなかった。…こうして、ネット上の「ヤマダヒフミ」という人格は消失した。それは、現実の彼が消えるよりもはるかに簡単な事柄だった。まるで専用のスイッチをひねったかのように、「ヤマダヒフミ」は消えた。そして全ては平静に復した。



 …今、桐野は東北行きの新幹線の中にいた。彼は窓際の席に座り、そしてまどろんでいた。昨日までの睡眠不足が祟ったのだった。もっとも、今の彼には乗り過ごすかもしれない目的の駅など一つもなかった。そういう意味では、彼は安心してまどろんでいられた。そして、夢の中では、彼は小学校の頃の先生に怒られていた。それは二十代後半のまだ若い女性教師であり、彼が日頃から好感を抱いていた人物であった。その叱責は、他の教師とは違う、どこか人としての哀れみを含んだものであった。彼は今、夢の中でその教師から、愛のある説教を受けている所だった。彼はまどろみの中で、その教師に対して様々な感想を抱いていた。そしてふと目がさめると、そこはもう関東圏ではなかった。彼はいつの間にか、それまでとは違う世界にいた。それは本当に、彼が今までいた世界とは全く違う世界だった。外には、雪が降っていたのだ。


散文(批評随筆小説等) ヤマダヒフミの消失 Copyright yamadahifumi 2014-06-11 15:26:25
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