「起因 」 散文詩
アラガイs


「血の起因というものは自らの意思では切り離せない。
それを人類は延々と見届けてきた 」。

くり返されることによって生じる不幸とは、それらが臆病な性質に起因しているとは誰も思わない 。
例えば、養豚場で飼い慣らされた豚などは人類の食卓に微笑みをもたらそうなどとは夢にも思わない 。
牧童に連れられた羊、ヒマラヤの奥深く少数民族によって放牧されて育つヤクなどもそうである 。
人類は限りない欲望を満たすため、草食動物を更に臆病な性質へと導いてきた。
その結果飼い慣らされてきた草食動物たちの楽しみと云えば、与えられた餌を日々食べ続けることであり、天敵によって脅かされることのない保管された寝床でもあり、たまにあてがわれる予め選別された性行為などである。
まさに我々人類が愛して止まない、食う 寝る 遊ぶ の三種の神器ではないか。
しかしうらやましさも狭い空間で多数犇めきあうというストレスとの格闘を抜きにしては考えられない。
もちろん血液までも管理された彼らに訴える権利はない
その一生のほとんどは主でもある我々人類の手に委ねられているのだ 。


憎悪とは生きるための力とも為り得る 。
止むことのない民族紛争や宗教対立。特にそれが他者に向けられた場合、その復讐心は個人にとって生きる目的にも値する。
肉親に見られる親子の場合はどうだろう。
ある親子などは周囲が驚くほどの罵りあいをくり返しながらも、決して離れようとはしないのだ。
この場合、しないという意思決定よりも、できないという状況的な立場に置かれてしまっていると考えた方がよいだろう 。
憎悪の中で暮らし、共に憎悪によって支えあっている。
つなぎ止められた関係は憎悪が溶けた血のジェラートだ。これはなんとも不幸なことではないだろうか 。
罵りあう原因の多くは受け止める思考の違いからきているが、単に誤解では解消されないといった根も孕んでいる。経験してきた人生観を意識的に思想と導くのは本人の努力次第だが、そのことを意識する差異の違いからも生じてしまっているのではないだろうか。無知とは勝手に入り込んできて勝手に飛び去ってはくれない。
あなたはこれまで一体何を意識し身に着けてきたのか、と成長した子供は親の無知を罵倒する。親は飼い慣らしてきたはずの我が子を、いまだに無知だと思っている。互いが互いの関係に縛られて会話は一歩も退かないのだ。
このような思いやりに欠けた否定だけが内在する親子喧嘩などは、どこかで終止符が打たれない限り日々延々とくり返されるだろう。親子と呼びあう血の関係に溺れ、互いに尊重し合う意思を何処かに置き忘れてきた。それとも端からその意思も無いのか、そのどちらかである。
拗れてきた思考の会話を取り戻すもの、それには互いの接点の違いを見出だそうとする本人の努力がない限りむずかしいのだ。

それでも子が親元から離れられないのには理由がある。その多くは経済的な負担を押し付けているのかもしれない。傲慢な親の眼には成長したはずの我が子でさえ、その関係は永遠に従属的だ。子は親の存在を生きるために手段の糧とする。同時に切れるはずもない関係の血を食物のように認識する。
自立を要求する子供は親元から離れたいと願う。小鳥が巣立つように。様々な営みや世界の拡がりを、身を持って体感しなければならない。それが子供に備わった自然な行為だろう。
しかしある親子関係に於いては、離れようともがけばもがくほど、逆に不思議な力が二人を引き寄せて離さないことがある。
憎悪による不思議な感情の力によって。夥しい年月の数を狭い空間の中で同時に過ごすのは、互いの成長を止めてしまう。思いやる気遣いなどはいつのまにか忘去られてしまうだろう。親にしてみれば、自立できない子供などは次第にやっかいな存在として映るだけだ。いちいち文句を言われるばかりで、安心して経済的に頼ることもできない。たとえ身の回りの世話をすべて任せるようになろうとも、それは自分の蓄えを当てにした行為にちがいないと不満因子に支配され、素直に感謝する心得は既に消え失せてしまっているのだ。罵りあう度に憎悪だけが募る関係をくり返せば、それは互いに面倒なだけの存在にもなってくる。子供は自力で旅立ちを決意するが、何故か行く先々で不運に見舞われる。愛情に飢えていた、反面孤立心が強いために従属性も弱い。小さな世界で起こる対立にはうんざりだ。結果的に誰かがいつも去るのだが、それを持って生まれた宿命だと思い込むようになる。弱いこころは直ぐに折れてしまう。甘えが顔を上げてくると気持ちは直ぐに親の元に向いてしまう。いつも反発してきたはずだ。しかしよくよく考えてみれば、子供の生き方などに興味を示さない親に子供は頼って生きてきた。その反発心も、実は気づかないうちに飼い慣らされることに多いに役立ってしまっていたのだ。人生を、自身の立場からみつめることができない。甘さは結局空虚な気持ちを連れてまた親の元に帰ることになるが、それでも親子の関係は日を追うごとに悪化する。年を重ねるごとに意固地も増してくる。喜寿を過ぎれば認知症の兆候も現れはじめるだろう。物忘れを自覚できない欲深い年寄りをみたまえ。決して預金通帳をその手から離そうとはしない。猜疑心は醜いほど一生頭から消え去ることもないのだ。

育て方を間違えたのだという認識が後になって確信に変わる。
そのような認識に囚われてくると、親にしてみれば子供は盗人よりも質のわるい存在に映り出すかもしれない。本音で言い争う肉親の喧嘩はより辛辣になる。無視と決め込もう。それでも一方的に突き放すことはできない。親子に流れる血の関係を、自らの意思で断ち切ることは虚しい。

一向に改善されない親の認識を、子供は無知だと必死になって諭そうとする。一日の終わりには決まったように罵りあいと変わる。そしてある日突然はじめから聞く耳など何処にも持ち合わせてはいなかったことに子は気づくのだ。
この親子には矛盾を解消する術がない。
坂道を滑り落ちるように、互いの骨にすがり付くしかない。
認識は欠けたまま、共に闇雲と暮らす。そして年月だけが過ぎ去って行くのだ。
このような親と子に生じる憎悪の関係とはどこからきているのだろうか。過去何らかの原因によるものが、未だに血と溶けあってはいないせいかも知れない。不信から飛び出される羽根の震えを、悪意のまま受け入れて暮らしてきたのかも知れない。それは親と子の関係を通りすぎて過去にまで遡る。憎悪は解消されることもなく土の墓標と帰る。因果は悪意の源泉を辿り、取り残されたまま血の塊は眠る。ふりかえる親子のみた幻想は、新たな言葉へと託されることはないのだ。
互いが互いの立場を尊重しあう。
それを胸の奥底で促すことはあっても、眼に映る行為として表現されたことがあるだろうか。
混ざり合おうと血の晶(カタマリ)は永遠をさまよう。
針を刺す手は怯えたまま、互いの胸を探りあう。
絆は何処へ帰着するのか。
…潮溜まりに止まる日付…死んだ月はいつまでも離れない。
生まれたばかりの彗星は銀河の帯を旅する。氷は無知の塊だ。
あなたは何も信じない。
闇は生きている。
しかしその姿を捕らえるのは死にも等しい 。










自由詩 「起因 」 散文詩 Copyright アラガイs 2014-06-07 19:25:55
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