或る芥川賞作家の受賞会見
yamadahifumi




                            ※                    
 

『六月一日に桐野龍一氏が小説「神切り歩き」で芥川賞を受賞し、七日に受賞会見が開かれた。以下、その会見全文を掲載する。

 
 ーー桐野さん、おめでとうございます。桐野さんは四回目の候補作での受賞ですが、今のお気分はどうでしょうか?

 「…知りませんね。僕は今、こうしてここで話していますが、元々、乗り気じゃなかったんですよ。しかし社会権力ってのは凄いもんですね。まるで肩を思い切り掴まれて、そしてこの席に無理矢理座らせられたようなもんだ。…どうせ、あなた方記者も退屈だと思っているだろうし、それにこの会見ーーこれ、生中継してるんですか?。してる?。…ああ、そう。…そう、どうせ、テレビの前の連中も退屈そうに僕を見ているんでしょうし、今日はとことん語りますよ。どうですか、記者の皆さん。僕はここで、とことん語りますよ。皆が嫌になって逃げ出すくらいに。どうせ、誰も僕の作品なんか読まないし、僕の作品が書店に山積みされてそれがレジを通り、売上に換算された所で、『誰一人として僕の作品を読まない』。これは僕の確信でしてね。その昔、ゲーテもうんざりしてましたっけ。あなた方のような人達に」

 ーーそれはどういう意味でしょうか?。『誰一人として読まない』というのは?。

 「言葉通りの意味です。この言葉の意味が分からないほど、あなた方も馬鹿じゃないでしょう。あるいは、本当にわからないのですか?。いいですか、芥川賞受賞作なんてね、どこぞのサラリーマンが世の中の時流に乗り遅れないために、会社でインテリ面するためにちょっと手にとって本屋に持って行って、そして半分読んでうんざりしてブックオフに売る、そういうものなんです。僕が賞を取らなかったら、そのサラリーマンは僕の本に永久に出会う事はないでしょうけどね。しかし、そのサラリーマンが僕の本を半分読んだからといってそれがなんです?。そのサラリーマンにとっては、結局、あらゆる本が娯楽なんですからね。知的なものもそうでないものも、全部娯楽だ。僕がどれだけ生命を捧げて書こうと、所詮は娯楽なんですよ。娯楽。そしてそれ以上の事はない。僕が一所懸命書こうと書くまいと、全部同じ事だ。こうして喋っている僕を、テレビの前の人間は笑っているでしょう。結局、今の僕などというのはおもちゃなんですよ。僕の話をまともに聞くのは、未来の芥川賞受賞者ーーーつまり、作家志望者だけでしてね。でも、彼らも僕の言っている事を、自分が賞を取るための秘訣がどっかに隠されやしないかと思って聞くだけでね。彼らにとって僕なんてどうでもいい。全ては、彼ら自身が立派な賞を取るための、その踏み台に過ぎない。僕はその踏み台として使われようとしている。全く、最近の若者というのは向上心にあふれていて、素晴らしいなと思います。人の話など全く聞かずに、ただもう闇雲に自分の虚栄心にしたがってどんどん進んで行くだけなんだから。ポジティブ・シンキング。結構です。彼らは永遠にポジティブ・シンキングして、そうして何一つ得る事はできないでしょう。素晴らしいですね、この国の若者は。ほんとに」

 ーーかなり、厭世的な話になってきましたが…。選者からは厳しい言葉もあったようですが、その辺りどうでしょうか。

 「どうでしょうかもクソもないですね。ほんとに。どうしようもないですね、彼らは。十年一日のごとく、くだらない『文学』なんてものが存在していると思っている。多分、彼らの脳みそは近松秋江と正宗白鳥で止まっているんだと思います。だって、見てください。僕の前の芥川賞受賞作品、あれは何でしょうか。どうして今頃、田舎の郊外での祖母との暮らしをあんな風に切々と描かなきゃならないんでしょうか。そして選者はどうしてあれをあんな風にして褒めるんでしょうか?。…全く、どうでもいいですね。僕はほんとに、どうでもいいと思うんですよ。この賞もどうでもいいし、僕の作品もどうでもいい。でもね、僕は逃げなかったつもりですよ。つまり、この今の社会からね。大抵の連中は皆逃げている。どうしてかって?。…簡単ですよ、そっちのが『文学』っぽいからですよ。くだらないですが。『文学っぽさ』を出すために、彼らは現実と乖離した作品を作るんですよ。そしてそういう作品に賞が渡る。馬鹿馬鹿しくてしょうがないですね。ほんとに。どうして今の僕達の現実を作品にしようとしないんでしょうか。どうして僕達の現実から逃げようとするんでしょうか。…ちなみに、僕が現実から逃げない、と言っているのはニートの淡々とした日常を書けって事じゃないですよ。そんなものじゃないです。僕が言いたいのは、どうして皆書く時に、その方法論がそんなに定まっているのかって事です。これは長い文学論になりますがね。皆の書いている事見たら、すぐに分かりますよ。皆どっかで見たような書き方ばっかりだ。別に、他人と似ていたら悪いという事もないですがね。ですが、彼らというのは何でしょう。結局、書く方法は皆一緒なので、だから後は書く題材だけが重要というわけだ。これだけははっきり言っておきたいのですが、文学において書く題材なんて二の次です。二の次。だからどんな傑作小説だって、プロットだけ取り出すと、生ーー性交ーー死、みたいな簡単なものになる。ですが、文学で大事なのはそれじゃないですよ。そういう事が文学の本質じゃない。セルバンテスを見てください。彼がどれほど、既存の文学に敵意を燃やしたか。ドストエフスキーの人間を描く方法はこれまでとは、全く違います。…考えても見て下さいよ。よく考えれば、馬鹿ばっかりだ。ほんとに。僕を選んでくれた選者には悪いけど、あまりにもくだらない。ひどすぎる。彼らの内に、『もう、文学にはどのような方法論も残っていない。あらゆる方法が試みられてしまった』とそう嘆いていた評論家がいましたね。笑えますよ。少なくとも、お前の頭の中ではそうなんだろうな、としか僕には言えませんね。まだ全ては始まったばかりなんですよ。いや、まだ始まってすらいない。可能性というのは、方法論というのは自分で作るものなんです。そしてそれを自分で作れば、その隣に、もっと他の可能性の道が見えてきます。みんなのやっている事というのは、こうだ。あらかじめ整備された道だけを見て、「ああ、もう新しい道はどこにもない。全ての道は開拓されつくした」。お前が開拓しろ。お前が鋤と鍬で開拓するんだよ、馬鹿野郎。…まあ、そういう事ですね。口は悪いけど。そういう事です」


 ーーえー、大変な話になってきましたが、受賞はどなたかに報告されたんでしょうか?。

 特にしてません。


 ーーそれは何故でしょうか?。


 「別に言うべき事でもないと思って。僕には友達も彼女もいませんしね。親は喜んでくれましたよ。電話口で泣いてました。でも、これを言うとお茶の間の常識人から目一杯叩かれるんでしょうけど、うちの親は僕の作品の出来なんてどうでもいいですからね。僕は二十二から小説を書き始めましたが、その頃の作品と今の作品とどっちがいいのか、うちの親には見分けがつかないでしょう。…いや、それぐらいはつくかな。まあ、いいです。とにかくね、僕が思うのは、僕の作品なんてものには誰も興味がないって事です。うちの親が泣いてたのは、僕がこの賞をもらったっていうのが、今流行りの任天堂やソニーにうちの息子の入社が決まった、なんというか、そんな感覚によるものなんですね。ところが、僕はそんな事は糞食らえだ。僕は、この作品に、そういう『糞食らえ』という感覚を詰め込んだつもりなんですけどね。僕に言わせれば、あらゆる芸術や哲学というのは一般体系化された個人の壮大な愚痴に他ならない。シオランがうまい事を言っている。「あらゆる思想とは巨人に踏み潰された天使のうめき声にすぎない」。シオランは良い事を言っている。彼は、最高だ」


 ーーえー、私、ニコニコ動画の記者なんですが、ユーザーからコメントで質問が来ていまして…


 「超会議なんてふざけた事をやってないで、生放送のエラーを直してください」


 ーーは、はい?


 「今言った通りです。僕はプレミアム会員なんでね。早く、延長エラーを直してくださいよ。僕はあるゲーム実況配信者の放送をいつも楽しみに見ているんですが、その配信者がいつも困っていてましね。早く直してください」

 ーー…えーー、それではまた文学の話に戻りますが、誰か影響を受けた作家などはいるんでしょうか?。


 「はい、います」


 ーー誰でしょうか?


 「『神聖かまってちゃん』です。それ以外にいません」


 ーー失礼ですが、その…かまってちゃんというのはどなたなのでしょうか?。私は知らないのですが。


 「『神聖かまってちゃん』はロックバンドでしてね。知らないのも無理ないです。そこまで有名でもないですから。でも、僕は彼らの音楽を二十五才の時に聴きました。僕にとってはそれが全てでした。彼らの『ロックンロールは鳴り止まないっ』という曲が、僕にとっては雷鳴のように響きました。僕にとってはそれが全てでした。彼らの音楽が僕にとっての人生のハイライトであり、正に全てでした。僕は彼らの曲を聴いた時、始めて自分の人生が嘘だったという事に気づきました。…例えば、『文学』とかね。こんなものは嘘です。存在しません。これまで優れた文学者は各々勝手に自分の夢を育て上げてきた。彼らは文壇だの文学研究だの、わけのわからないカタカナ語で自分を取り繕うわなくても、言葉という万能の道具で直に世界を見つめる事ができた。あるいは、世界と戦う事ができた。そして、それが全てだった。夏目漱石の作品のどこを切っても、『文学』などというものはでてきません。夏目漱石は最初から最後まで夏目漱石でした。彼は独自の存在だった。それがたまたま『文学』という媒体を通して出てきた。それだけです。そう、それだけです。だから、文学などというものは嘘です。まあ、それを商売に使っている人間はいますがね。…今の僕らみたいに」


 ーーでは、最後に視聴者に一言お願いします。

 
 「お願いしますと言われてもねえ…。まあ、今こうやって僕を見ている人は、僕が馬鹿な事を言っているのを見て、『ああ、こいつは馬鹿だな』と思ったでしょう。で、小説などまともに読んだ事のない常識人達がたまたまヤフーニュースか何かで、僕のこの醜態を見かけたら、舌打ち一つしてツイッターか何かに『今度芥川賞取った奴は態度が悪すぎる。作家としてはどうだかしらないが、社会人としてはどうなんだ』みたいな事を書くんでしょう。多分。でもまあ、そういう事に僕も先回りして言っとくと、僕が何故、小説などというものを書いたのか。何故、十年近くも苦しみながら小説というものを書き通したかというと、それはそういう常識人達の常識をぶち破りたかったからです。そして、その方法を教えてくれたのが『神聖かまってちゃん』だったというわけです。人はなんとでも言えるでしょう。特に、芥川賞を取った奴が僕のような阿呆だったら、こいつを叩く事で一種の快感が得られる。何故って、そうする事によって『芥川賞を取った有名な作家よりも自分の方が人として上だという事を証明できるから』です。その自尊心の為です。でも、僕が小説を書く事によって常に戦ってきたのは正に、その自尊心に対してです。その、平凡こそを至上とする、唯物論と資本主義とメディアの氾濫が結合したこの世界の最上位構成物ーーーつまり、『平凡こそが至高である』というその宗教に対してです。僕はいつもそいつに闘いを挑んできたつもりです。で、この度、たまたまこの芥川賞を取る事になった。まあ、ありがたい話ですがね。ですが、賞なんてどうでもいい。僕が戦わなきゃならなかったのは、このカメラの前で薄ら笑い浮かべている人々、あるいはその目です。僕はその目を突き破りたかった。人々の作ったメリーゴーランドで遊ぶのはうんざりだった。だから、小説を書いた。そして何とか、今日まで生きてこれた。まあ、それだけです。僕のした事は。それをどう評価するかは人の勝手です。とりあえず、僕はそういう事をした、と。僕の言いたい事は以上です。
 あ、あと、最後に一言だけ。ニコニコ動画の記者さん、生放送のエラーは是非直してください。僕はプレミアム会員五年目なんですよ。それぐらい、いいでしょう。では、もういいですか?。今日はどうも、僕のくだらない長話に付き合っていただいて、ありがとうございました。それでは、どうも」


 
 ーーーー以上の受賞会見はお茶の間に大きな反響を呼び起こした。桐野氏の言葉が過激なものだったからである。週末のNHFで行われた独自のアンケート調査では、桐野氏の言葉に「共感する」が39%、「共感できない」が50%、残りは無回答だった。』                                                      



 ……だがしかし、桐野氏のその受賞会見の反響は一週間も立たない内に別の話題に取って変わられた。その頃、ある著名な作曲家が実はゴーストライターを使っていたという事が発覚したからだった。
 こうして桐野氏の言葉はすぐに忘れられた。それから以降、今にいたるまで、彼は新作を発表していない。



※ 本作品はフィクションです


散文(批評随筆小説等) 或る芥川賞作家の受賞会見 Copyright yamadahifumi 2014-06-04 16:37:40
notebook Home 戻る  過去 未来