ビー玉沿線
角田寿星

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文献によればビー玉沿線の原形が見いだされるのは乾永4年というから
はるか安土桃山時代まで遡る。むろん当時は鉄道の概念はなく線路など
というものは存在しないがビー玉を直やかにすべらせるために地面に溝
を彫りビー玉を目的地まで届けることがすでに試みられていたという。

光を反射させながら転がりゆくビー玉は現代ではごくありふれた光景で
あるが当時の人々には珍奇なものとして映ったらしい。尻をはしょって
髷と鼻を地面に擦りつけんがばかりにしてビー玉を眺める沿線の庶民の
さまが楚形東琳のかの有名な戯画に克明にあらわされている。ちなみに
竹市南瓜のビー玉沿線の句は東琳のこの戯画に触発されたものに他なら
ない。

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わが国最初の本格的なビー玉沿線の登場は明治後期である。線路の形態
は発足当時より美しいU字形をえがく最終型であり現代のそれとほとん
ど変りない。これまで個人的かつ近郷近在だけのものであったビー玉の
やり取りは華やかな国有事業として生れ変わった。わが国はじめてのビ
ー玉運搬の速度は東京新橋間を約20分であったという。

『ビー玉沿線』ということばが遣われはじめたのはそれからまもなくで
ある。わが国を駆け巡るビー玉に人々は群がり寄った。昇り坂での停滞
は急務であった。すてえしょんを中心に建設される屋台に見張り台に灯
台に高築台。当時の人々の最大の関心事はどれだけ沢山のビー玉を受け
取ることができるかであった。ビー玉の所有をめぐる裁判の頻発やビー
玉抱え込み運動などの問題も生じることとなった。

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ビー玉弾道特急の計画と挫折についてはここでは詳しくは述べない。
『ぷろじぇくとえくす』を参照されたし。

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戦後の混乱期を経て誰もがビー玉に飢える一方で人間にとってビー玉と
は何かという論調が高まるようになった。ほんとうのビー玉とは生涯ひ
とり一個であるべきではないだろうか。ある者はビー玉沿線を根城にほ
んとうのビー玉の到来を待ち続けまたある者はほんとうのビー玉を探し
に流浪の旅にでた。さらにある者はこれは政府の情報操作であると闇の
中から叫び続けた。

「よろしい。ほんとうのビー玉とはあってはならないものである(丈田
太郎『ビー玉序説』より)。」人間にとってビー玉とは何か?かくもな
ぜ人々はビー玉を探し求めるのか?ビー玉のなかに包まれたものを人間
は視ることができるのか?ビー玉沿線とは魅惑であり永遠に訪れない主
題であり人間に課せられた過酷さそのものであり完全な球形以外の何者
でもない。やがて人々はビー玉を視なくなった。

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本日もビー玉沿線は活況である。かつての屋台や見張り台や灯台や高築
台は当時の面影を残したまま改造されて人々のよしなし事を満足させる
べく活動中である。ビー玉沿線には騒擾の音楽と人々の笑い声がひび
く。ペンペン草の生えた線路を陽光を浴びてビー玉がゆっくりと進みそ
れはごくありふれた日常的な光景である。そしてその光景を注視する者
はもういない。


自由詩 ビー玉沿線 Copyright 角田寿星 2005-01-22 12:19:44
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