外科医より君へ
yamadahifumi
「多分、君は僕の事を知っているだろうし、僕も君を知っているだろう。君の周囲で一番暗い顔をしているのが僕だし、僕の周囲で一番悲しい顔をしているのが君だ。僕達は互いを知っている。でも、一度も話した事はない。
今日は胸襟を開いて語り合おうか。僕は知っているんだ。君は、僕の言葉を魔術にでもかかるようにして『聞かざるをえない』という事が。僕は君の事をよく知っている。君は孤独だ。君はとても孤独な存在だ。だが、君はある点から、皆のように孤独をごまかす事に疲れてしまった。君は皆の元に飲みに行くのもいつからかやめてしまった。君はもうどうしてか、君の友人と語り合うのを好まなくなったし、それに君は君の恋人とももう別れてしまった。何故かというと、君にはその人達が、君自身の存在とはまるで関係のない事について話したり喋ったりしているように感じられたからだ。君は恋人と抱き合っていても、そこに君の存在はなかった。君はいつの間にか、一人で寂しがる方が寂しさを紛らわせようとするより楽だという事に気づいた。だから今君は、部屋で一人パソコンに向かって、この僕の言葉を聞いている。
そうだろう?。
君は僕に対しては、何一つ隠す事はない。君は僕には何一つ嘘をつく必要はない。君が今必要なのは、真実だ。君は病人が特効薬を求めるようにして真実をもとめている。だが、そんな君に真実を処方してくれる医者はこの世のどこにもいない。君はそういえば、読書家だったね。君はブッダにも手を出した。聖書にも、論語に手を出した。ドストエフスキーと夏目漱石を同時進行で読んだ事もある。そして君は現代人の御多分にもれず、ビジネス本や啓発本をやたらに読み散らした。それでも君は君自身の魂を救う事はできなかった。君の後ろには沢山の読みかけの書物があるが、それは君にとってただの塵に過ぎなかった。そして今君は、僕のこの言葉を聞いている。そうだろう?。
思えば、君は色々な事に手を出したね。多分、君は何かを求めていたんだろう。あの日、君は急に思い立って小説を書き始めたが、それは一週間と続かなかった。君は健康食品に手を出し、女にもてる為の服装を雑誌を見ながら思案したり、大学で皆との差をつけるために奇抜な服装をしていった事もある。君は友人との待ち合わせにはいつも、友人に白い目で見られないように二十分前には待ち合わせ場所につくようにしていた。だけど君は友人達が来ると、いつも、さも「今さっき丁度ついたところ」という振りをしていた。そうだね。それは間違いないだろう?。
君はバンドを組もうとした時もある。君はビートルズやクイーンに憧れて、ジョン・レノンモデルのギターをローンで買うか真剣に悩んだ事がある。でもその構想はすぐに流れてしまった。君はFコードも弾けないまま、音楽をやめた。いや、君はFをぎりぎり弾けただろうか?。あるいは君はスポーツジムに通っていた時もある。あれは三ヶ月続いた。君にしてはよくもったほうだ。それに君は写真を取る事を思いついて、デジカメを買った事もある。君がアマゾンで購入し、そして今タンスの肥やしになっているあれだ。それに君は運転免許を取って、女の子を車に乗せてドライブしようとした事もある。でも、君の車にはどんな女の子も乗りはしなかった。君が教官の偉そうな態度に憤慨して、講習を受けるのを拒否したからだ。それから君は車の事は考えていない。
もちろん、君は株に手を出した事があり、FXで五万円ほど損した事もある。あの時、君は熱くなってすぐにその倍額つぎ込もうとしたが、しかし、心ある先輩が君を止めた事によって、五万円の損で済んだ。もっとも、その後、君は強がっていたがね。「あの時、続けていれば多分勝てた」。君の言葉には「多分」がとても多いね。君はいつも、満たされない気持ちでいて、そして突発的に何かを思いついて色々してきたが、しかしそれが長く続いた事がない。それが君だ。
そして気づけば、君はもう三十才を越えている。あるいは君は今年で三十だったかな。もう二十代のようにはしゃぎまわってもいられない。君は何かをしなければならない。だが、君は何をすればいいのかわからない。君には知識があるし、頭も悪くない。職場では邪魔者じゃないし、どちらかといえば切れ者のほうだ。仕事はそこそこできるし、できない奴には腹が立つ。でも、君はそれだけだ。君はもう三十だ。君は今、焦っている。そして自分を振り返って、君は少しだけぞっとする。君は眠る前には、天井のシミだけは見ないようにする。あれを見ると、何かしら子供の頃の悪い記憶が蘇ってくる気がするからだ。だから君はかすかに明かりをつけたまま眠る。そして翌朝が来る。全ては何も変わっていない。そして君だけが少しずつ年を取っている。少しずつ、少しずつ。君は急に結婚を考える。結婚相手もいないのに。結婚して、綺麗な奥さんがいれば、君は幸せになれるような気がする。でも、夫として、父としての君自身を想像する事はできない。君はただ、結婚というものをなんとなく考えてみたに過ぎない。今の境遇を救う何か、救世主的な、突発的な事態として。君は、たった五日間で書き上げた原稿用紙五十枚強の小説を新人賞に送った事があったね。あれは壊滅的にひどい出来だった。出した後に、君はひどく後悔したほどだ。でも、その事を君はあっさりと忘れてしまった。
君の三十年近くの人生というのは確かこういうものだったね。僕が君の代わりにざっと振り返ってみたよ。ハハハ、どうだい。君は自分で自分を振り返ってどう思うんだい?。惨めだと思うかい?。いや、そうは思わないかな。君はどうやら、最近怒りっぽくなったようだね。昔、君は軽蔑してたものだよ。自分のツイッターにグチグチと、まるで自分自身の人生とは関係のない政治事や時事ニュースについてがみがみと書き立てている愚か者達を。君は、どうしてあんな事をわざわざネット上に書くのか、不思議だった。君は駅前で声張り上げて、ビラを配っている右翼だの左翼だの、あるいは宗教団体やらに軽蔑的な目線を送りつつ、その横を通ったものだった。でも、今君はその満たされない思いから、自分の叫びを制御しきれなくなり始めている。君はこの前、自分にはまるで関係のないAKBの悪口をぐじぐじと書いたね。君はそれを長々と書いた。じゃあ、今僕は聞くけど、君はそれを書いて少しはスッキリしたかね?。ハハハ、どうだ。君は自分がそんな事を書いて、本当にすっきりとしたのかい?。…本当の事を言おう。君はあれを書いた後、以前よりももっと惨めな気持ちになった。自分のみすぼらしさが明らかになった。君は、画面の奥の華やかな人達をモデルにして、そしてその姿と自分とを比べて、そうして三十越してもまだ何者でもない自分を疎ましく思った。そうだろう?。でも、君はその自分の感情からも逃げ出した。全く、君はいつも逃げ出してばかりだね。君はこれまでずっとそうやって、自分から逃げ出してきた。自分から逃げ、他人からも逃げ、そうして今世界からも逃げ出そうとしている。君の顔は次第に険しく、鋭くなりはじめ、その言葉はギスギスとし始めてきた。君は満たされいない思いのまま二十代を終え、そしてその気持ちを三十代に持ち越した。そしてその解決法は未だに、全然見つかっていない。君は、もう気づいているだろう?。僕は親切心から君に先に言っておくけど、君がこれからまた、これまでの君と同様に、突発的に君を救ってくれるはずのの何かに手を出したり、またそれによって自分を救おうとしてもそれは無駄な事だ。何かをするっていうのは地味な手作業の連続で、君のように飽きっぽい人間には無理な事なんだ。そして君は自分ができないのを『才能』のせいにする。全く、いい気なもんだ。君は全部から逃げ出して、そしてその挙句、『才能』などという言葉の内に逃げ出す。全く、君はどこまで逃げたら気が済むんだろう?。僕には君の姿がよく見えるよ。君が墓に入ってもまだぐじぐじと言い訳して、そうして今度は自分の白骨から逃げ出そうとする、その姿をね。なあ、君。それが今の君、そして将来の君だよ。君はそんな君の姿を見てどう思うかな?。ネットで『底辺、底辺』と書き散らして他人をいくら蔑んでも、君は君から逃げる事はできない。君はそろそろ、もうそろそろ、その事を知るべきだろう。君はもう三十だ。今だったらまだやり直せるかもしれない。
さて、僕はこんなくだらないおしゃべりはもうやめるかな。君は僕のこの言葉を読んで不快になったかな?。もし不快になったのなら、多分、僕の言葉が当たってたんだろう?。なあ、君はどう思う?。君自身の事について。君はたまには手の平でも眺めて、そうして自分に思いを馳せるべきだ。君は孤独だが、それから逃げ出す事は許されない。君はどうしてこれまで、こんなに自分を蔑ろにしてきたんだろう?。どうだろうね。
さて、では僕はそろそろ行こうか?。僕?。僕はまあ、通りすがりの『勝ち組』の一人でね。僕は年収千二百万円の外科医でね。外科医はイケメンでなくてもモテる、って話があるけど、あれは本当でね。僕は二つ年下の妻がいるけど、七つ下の看護婦と不倫している。この看護婦は目がくりっとしててね、可愛いんだぜ。ま、あれは整形だけどね。その辺り、僕も医者だから見たら分かるさ。さて、と。
さて、この僕の自己紹介が本当か嘘かはもう君にも分かっているだろう。まあ、君は画面の前でせいぜい一人でオナニーするこったな。悔しいか?。悔しかったら……その原因は君の外部にあるのではなく、自分の中にある事を知る事だ。まず、君のやらなければいけない事はそれだ。そして、全てはそれからだ。まずはそれだけ。まずはじめにやるべき事はそれだけ。何かに救いを求める事じゃない。救いがない事を自覚する事。自分の存在を直感する。まずは、それなんだ。僕達が本当にすべき、最初の事は。
ところで、僕は一度もメスを握った事がなくてね。白衣も着た事はない。でも、一度もメスを握った事もなく、一度も白衣を着た事がない年収千二百万円の外科医もこの世のどこかにいるかもしれない。君はどう思う?。
これは、宿題さ。来週までのね。
それでは、さよなら。また君と会える日が来るといいね。その時には君が見違えている事を、僕は切に熱望するよ。まあ、多分、変わんないだろうけどさ。多分、ね。
それでは、また。」