あれかこれか
ハァモニィベル
** 1 **
それは、夜だった、し……
……それに、海は、嵐だった。
だが、――響く 、あの声。
(哀しく、美しい鳴き声)
――五色鶸のアリアよ。
五感の全てを、
支配した君が、
冷酷に微笑む夢。
幻影の激しい渦に、
しだいに、甘く溶け込むうち、
忘れてしまった〈僕〉が
ぼくを
また見つけ出す。
透き通った その手をのばし、
指を
こちらの方に突きつける。
寂しさに噛まれたまま、
嵐の夜ばかりが
打ち寄せる
波のように。
** 2 **
庭に潜む秘密は、知られてはならない。
北隅の樹陰に埋められた〈怨み〉よ。
歴史を持った旧い洋館が建つ、鬱蒼と憂鬱なその庭に、
やつれ果てた黒衣の女主人が、踞り、
何かを摘んでいた――草。オトギリ草。
黙黙と草花を摘んでいるように見えた口から漏れる、
幽かな呟き。「アビダルマダイビバシャ、あびだるま・・・、
阿毘達磨大毘婆沙阿毘達磨大毘婆沙・・・」
踞る黒衣の上を、
やはり同じような黒いものが、
しきりに飛び交っている――蝶。黒い蝶だ。
バサバサ、ばさばさ、婆娑婆娑
と、
婆娑婆娑 婆娑婆娑 婆娑婆娑 婆娑
婆娑 婆娑婆娑 婆娑婆娑 婆娑婆娑
婆娑婆娑 婆娑 婆娑婆娑 婆娑 婆娑
と、
徐々に数を増して舞う、真黒な蝶たち。
は、やがて、
夥しく群をなし、 晴れていた空を嘘のように
一瞬で、
掻き消した。
と見るや、
その瞬間、その
黒い雷雲の天井から、
底を、
土砂降りの雨の牙が襲った。
** 3 **
気がついた時には、もうその扉が眼の前にあった。
見たことのない、古ぼけた臭いのする昏い廊下に、なぜか私は独り立っていて、いま、眼の前にあるこの扉だけは、奇妙に懐かしいような気がしているのだった。見ると、古びて燻んだ木製の扉には、特徴のあるノブが付いており、S字を横に長くしたような、丁度、数学の積分記号を真横に寝かせた如き形状の、金色のノブが、最近付けられたに違いないと確信できるほど、地味な扉とは対照的に光っていた。何か特別な意味を秘めて、それだけが、妙に、鮮やかに浮き出しているようで、触れなければならないと、心のどこかで思いながら、その一方で、〈畏れ〉が、触るのをためらわせてもいた。しかし、他を見渡しても、廊下の先は、右も左も真っ暗闇であり、恐ろしいほど昏くて狭い鈍色のこの廊下にあるのは、壁に亡霊のごとく浮かんで眼前している燻したような焦げ茶色の、この扉だけだった。けれど、そこでは、妖しすぎるほど眩い金色の輝きが、今、私をひたすら立ち止まらせるように圧迫しているのだ。こんな逡巡を何度めぐらしてみたところで、結局、ここしか扉はないと本当は、解ってはいるのだ。 ・・・恐らくここは、西洋式の古い城館ではないだろうか。理由は、この全体の雰囲気もあるが、扉が、部屋の内側に開く造りであることから、そう考えられた。城は侵攻された場合の合理性から、敵を押し返しやすく、中から障害物を置いて抵抗しやすい、こうした内開き式が普通だ、と聞いたことがある。
私は、思い切って、ノブを捻ると、〈扉〉を押し開いた。
中に入ろうと、一歩踏み出した時、部屋が一瞬で眼の前から消えた。足が、突然、宙に浮く――その感覚とともに、反射的に掴んでいたドアノブを握りしめた。必死に両手で内と外のノブにしがみつく。手に、全身の体重がかかったまま、宙ぶらりんの状態になった。下を見る余裕などない。何とか足を元の廊下へ、足を廊下へ、と思い切り蹴り上げてみたが、大きく失敗し、その弾みで手はノブをカラダごと滑った。扉は意志を持ったように強烈に閉じて、巨大な音を立てた。私は落下を覚悟して、身をすくめたが、瞬間すぐに、腰と背中が硬い平面にぶつかり、私は痛みより安堵を感じたが、その衝撃と恐怖から、さらに肩で2,3回横に転がった。――どうなってる?
見回すと、何事もなかったように部屋があった。
だが、今度は部屋の中のどこにも扉が無かった。
一体、どうなってる?さっきは部屋が消えたのに、今度は扉が消えている!
閉じ込められたのか。?
幻惑の覚醒を促す薄っすらと昏い空間の内部を見上げると、今にも落ちて来そうな天井から、何かが、こっちを見下ろしている。鋼鉄の錆びた額縁に囲われた、色彩の全くない絵画!よく見ると、そこに私の顔が、途中まで描かれたまま捨ててある。
思わず目を逸すと、床の隅っこでは、たくさんの過去と未来が、袋からこぼれ、そこから、ただ、残酷だけが芽を出し、葉を開いていた。シツケの悪い掃除ロボットが、奇怪な音を立てながら床に糞を撒き散らして彷徨い、それを見た青白く輝く地球儀が、回りながら、切なく温暖化していた。
*
宝石の夜景が、黒球の表面に
輝きを回転させる、その
動く周期につられて、
意識そのものが、そこへ
徐ろに吸い取られていき、
脳内に夜が訪れはじめると、闇が、
支配を徐々に拡げていく。
やがて、眼の前で回転している球が、
自分の首から上の頭であることに、
・・・私は薄っすらと気づいた。
** 4 **
薄暗い夜が陶酔を抱え込んだまま覚醒を拒む。
背中についた砂を払うようにベッドから出た男に
あなたはわたしの為に泣かない、と女が詰る。
男は欠伸をすると、テレビをつけた
《 美しい地平線
今なら99万9800円 お早めに!
空と大地の間を貴方のモノに! 》
確かにお買い得だ。そう思った、
その時、
――ドサリ、と。
虚脱した女の躰が背中に覆いかぶさる
大好きだった顔は、妙に長い髭が5本づつひろがった黒猫の顔。
男の頬を肉球が摩する。愛のように。
本棚の奥のツェランの詩集から声がする
何を言っているか解らない。
TVショッピングが、また流れる。
《 木彫の唇
先着50名様 今なら、39万7800円!
ご家庭用/会社用2個セットでお買い得! 》
ネクタイとスーツを決めて鏡の中を覗く
99匹目の羊がちゃんといる
玄関を開けると、大きなカラスの鳴き声!
「ネバー・モア」
エレベータでは、キリストが「開く」ボタンを押したまま待っている
ようやく、朝の気配を感じはじめた。
** 5 **
「ハル? そう、春。 そうだ、そこに来てる、今。 ああ、判った、
了解。 では、また報告する。 多分。」
ブン、ブン、ブンウウーンンン……………。
話し終えると、男は不思議な装置の電源を切った。
弾力の余韻が、男の立っている都市のOrchestraに飲み込まれ、
耳が雑踏に慣れると、はっきりと、何かが始まったという気がしてきた。
長身の背中が、トランステクノのリズムで歩みを刻みながら、
途中、すれ違うヒトの、蝉を喰った土竜のような笑顔をスナップし、
コクのない日々の臭いと、断片化した日々の匂いを、小型の試験管状の容器に次々に採集してゆく。
最期に、寂しがり屋のマネキンが水のような涙を流すのを背に、男は流れに流されるまま立ち去った。
「千年前は、まだスマフォなんだな」
――そんな奇妙なつぶやきを遺して。
** 6 **
フェラーリのような女が颯爽と乗込んで来た時、電車内は満席だった。
*
女は、妙に似合う黄色の吊革を掴んで立ったまま、彼女よりちょっと薄紅がかった、シャア専用といった感じの、携帯電話(スマフォ)を取り出すと、当然のように眺めはじめた。すると、彼女の鮮やかな色以外は、まったく周囲の習俗に溶け込んで見えなくなる。手にしているその枠の中にしか世界が無いかのように。
*
女は携帯で小説のつづきを読みはじめた。話題のベストセラー作家、退紅一斤(あらぞめいっこん)のミステリ小説『猩々緋の迷宮』だった。その中で、死体の傍に置かれた謎の暗号文が出てくる例の箇所をじっと見ている。
朽葉は、香りながら錆びた。
曙に丹心の茜、
白橡に昇る 復讐の'あさひ'
石竹をみよ紅梅をみよみよ蘇芳
*
彼女の秀麗な眉がキッとつりあがった。その瞬間、「白橡」の読み方が解らずに苛立っているな、きっと。そんなデュパンの推理が過ったが、(しろつるばみ)だよと教える前に、もう、飽きてしまったのか、彼女の画面は、既に、或る投稿サイトの今月の勉強会のページへと移っていた。
*
そこでは、〈赤〉をテーマにした詩についての創作や読解が行われていた。さっきの暗号文が、すべて〈日本の伝統の赤色〉で配されていることに気づき、ミステリの謎を解くかも知れないと、フェラーリのように赤い服を着た彼女の顔を見ると、綺麗な瞳を輝かせた、〈赤〉に無頓着な美女が、そこにいることに、こちらの方が気づいた。
*
彼女は、勉強会の記事を熱心に読んでいる。まさか。参加者ではあるまい・・・。
初めて見る彼女は、もう何度もネット上の会話をしている奇妙な顔見知り?そんな不思議な偶然も無いとは言い切れぬ。枠の中の世界が実体を持って裏返されたような瞬間。檸檬のような―― 一瞬。
*
彼女は、読書会の記事を興味深かそうに読みつづける。ルージュ・ココの口唇がちょっとほころんだのがわかった。
リンクを飛んで、私の投稿した詩が、彼女のスマフォの画面上に現れた。わたしの詩だ。意識を集中した彼女の美しい瞳が、その詩を、読み始めた。
《フェラーリのような女が、颯爽と乗込んで来た時、・・・》