聖徳太子
竜門勇気


近所の裏山に勝手にシェルターを作成しはや三年。
木の実を拾い、小川のせせらぎで口をすすぎながら命をつないでいる。
時に朽ちて倒れたブナの大木の上に腰を掛け詩を口ずさみ、自然はいかなるものにも平等であると悟ったようなことを思う暮らしだ。
木の実を拾い、小川に口づけをする、そして詩を紡ぐ。
二年を超えた頃には口ずさむ言葉は言葉であることを辞め、緩んだ弦を揺らすような音になった。
その頃からか、あるいは以前からそうであったのかは分からないが私は人の言葉というものが遠くはるかに霞む遠景のように思えて仕方がなくなっていた。
それが記憶の中で私に話しかける声は呪詛のようでもあり、念仏であり、異国の音楽のようである。

ブナの倒木に私の腰掛けた痕跡が心地よく風景に浮き上がっている。
恒例のゆるい唸り声に裏山の動物が集まり始めたのが今年の初め雪のひどい日だった。
寒さに震えながら動物に囲まれゆるい弦を揺らし続けたものだ。
そして今月のことである。ついに私の知る山からは隅々に至るまで雪は消え失せた。
濡れた下草に指を濡らしながらブナの倒木に辿り着きゆるんだ弦を揺らし、冬眠から覚めた生き物も交えてコンサートを開いているとそれはあらわれた。
いかなる山野の住人とも違う姿。聖徳太子だ。

太子はまごうことなく厩戸皇子その人といった威厳にあふれていて、俗世の権威とは縁を切ったと思っていた私にもその威光は大きな衝撃を与えた。
「野生の聖徳太子だ・・・・・・」
言葉ならずつぶやいた言葉はいささか張り詰めた弦の響きとなって木々を打った。
己の言葉に驚いた私は残響のかすかな残り香を探すように後ろを振り返る。
私の背中を見守っていた森は非難するようにささやかに葉ずれの音を立てた。私の声はすでに捉えられない場所まで行ってしまっていた。
(ああ・・・禁忌なのだなあ。)視線を戻すと聖徳太子はもういない。紺の礼装だろうか、紫紺だったかもしれない。やけに鮮やかに、しかし朝露に溶けこむように見えて・・・

「ねえ、知ってる?」

背中が跳ねる。頬が凍る。頭の中にいばらが流れ込む。

「回転胴翼機はぁ」「サマリーハイウェイの全長って」「子供店長にね」「匙加減の正式な発音」
「亀の子たわしってさ」「味噌汁ってちゃんとしたレシピがあってさ」「カンガルー」
「米びつ大臣」「蘇我、熊襲、石渡」「ガンジス沿岸地域に治安って概念を」

野生の聖徳太子に狙われている。そう気づくまでに時間がかかった。
普通に生きている限りお目にかかれないどうでもいいことの雪崩。
厩戸で飼育されている聖徳太子とは全く違った獣臭さに鼻が曲がる。
「深く三宝を敬え」とか「兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす」とか、そんな美しいものではない。
野生の聖徳太子は共振を伴った精神捕食を行う。
太子の言葉と私の言葉は共振を始める。私の言葉なのか、聖徳太子の言葉なのかわからない。
多分、どうでもいいほうがわたしの言葉なのだろうけども野生の聖徳太子もわたしも木の実を食い同じ小川で命をつないでいたのだ。
食べていたものが同じ生き物は物質的には同じなのだ。ただひとつ異質なクオリアを食べる生命存在。それが聖徳太子。

捕食が終わる。静寂が恐ろしい。やかましくなっていた思考の風がやんでしまった。
戻らなくては。山を降りなければ。人間でいられなくなってしまう。

濡れた枯れ葉をかかとで蹴りあげて逃げ出す私の背中にあざ笑うような緩んだ弦が鳴らされた。
何者にも私をあざ笑ってはいけない。しかしあの声はわたしの言葉なのだ・・・
かつての己なのだ。愚かだった。哀れだった。人との関わりを断って人だということを忘れようとしたのだ。
駆け下りる斜面に何度となく打ち付けられながらわたしは私に戻っていった。
その私の背中で何度か銃声が聞こえた。緩い弦が張り詰めるのを聞いた。
私を追い越してウサギや獣たちがジグザグに視界に現れては消えていく。
最後のつもりで音の方を向いたが一瞬のうちに日は沈んでいて、暗闇にフラッシュライトがチカつくのが見えただけであった。

出来の悪い息子がついに山を降りたと両親は喜びに震えて私を迎えてくれた。
これから苦難は続くだろう。ただ望んでした回り道ではあった。
人にどれだけ遅れようが生きていかなければいけない。人が私よりどれだけ強かろうが、戦って、また負けなければいけないのだろう。
今度はだれも励ましてくれはしない。望んで弱く生きているのだから。

食卓に並ぶ料理を噛みしめるたびに私の詩が聞こえる。
緩く錆びた弦が今にも千切れそうに叫ぶ。

「おかあさん、この肉は?」

「それはね。野生の森鴎外のお肉よ。ちょっと硬いでしょう。」


散文(批評随筆小説等) 聖徳太子 Copyright 竜門勇気 2014-04-24 11:38:29
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