■長い付き合いになりそうだよ、詩と私
千波 一也


「詩なんか」書いてる場合じゃない。

「詩なんか」書いたところで何にもならない。

そういう思いが、いまの私に皆無かと問われたら、答はノー。
でも、一割、二割ほどの気持ちのノー。
その割合の多少については、どのように判断すべきかわからないので、ここでは割愛。

およそ一年前の私は、先に掲げた思いから、しばらく詩作から離れた。

現に、仕事は忙しくなるし、子どもが生まれたことで自分の時間など持てなかったし、詩を書く時間はなかった。
詩を書かなくても、日常に支障はなかった。

詩が私から離れた。

が、今年の正月休み、以前よりは日常に余裕が出てきたので、久方ぶりにここ現代詩フォーラムをのぞいてみた。

自分の作品を読み返して恥ずかしくなったり、満足したり、新たなひらめきが生まれたり。
ひとさまの作品を読んで、悔しい!と思ったり、感服したり、はてな?と首をかしげたり。

で、そうこうしているうちに、詩を書き始めた私。

詩を書く、といっても、いまの私はケータイ派。

しかも、スマホではなく、ガラパゴスなどと言われる古き名器である。

スマホは確かに便利そうだし、面白そうだし、なんてったって「ナウい」。(ナウい、が通じない世代はスルー可)

でも、私は換えない。
愛用のガラパゴちゃんが壊れないかぎり、再起不能にならないかぎり、絶対に換えない。

この強情さと、こだわりはもはや私の自負であり、自分を愛する理由のひとつでもある。

さて、話がそれた。

詩を書くとき、以前の私はパソコンに向かって、あーでもない、こーでもない、と推敲しながらやっていた。
が、我が家ではパソコンを開けない。
なぜなら、輝くモニターに興味津々なリトルモンスターが接近してくるからだ。
しかも、接近だけでは飽き足らず、画面にふれるわ、ボタンは押しまくるわ、マウスは引っこぬくわ、で大惨事となる。

取り上げたり、届かない場所に移動したりすれば、たちまち機嫌を損ねて号泣だ。
この世の終わりか、と思うくらいに大粒の涙を流して号泣だ。

かといって、職場でパソコンを開いて堂々と詩作など出来るわけがない。

ので、今の私はケータイ派。

無論、この駄文もケータイで打っている。

ラブレター(いや、ラブメールか)でも、こんなに打ったことはない。

ケータイの難点は、長くなると全体を見られないことである。

一方、利点は持ち運びが楽なことである。
また、さきほどの難点を克服すべく、なるたけ短くまとめようと努力するようになったことも利点である。たぶん。

というわけで、毎日のように投稿を続けている私である。

ちょっとした休憩時間や暇な時間に、ピコピコとやっている。

約一年間、詩を書かなくても支障がなかったというのに、書き始めると、書きたいことが次々とあふれ出す。

少年に帰ったり、ひがんでみたり、女になったり、傍観者になったり。

まだまだある。

体験談を交えたり、想像に頼ったり、言葉の響きとイメージで遊んだり(遊ばれたり?)、謎めいたり。

ときには短歌も挑戦したり、このように駄文を綴ったり。

なんだか一貫性のないのが私なのだから、私は別に気にしてないんだけど、私を知らない人からしてみれば、「なんなんだ、この投稿魔は」なんて、震撼していたら困るので、気になさらずに、と伝えたく候。

さらに言うと、一年間で私の書きたい症候群は勢いを増しているので、まだまだ止みません、とも予告をしたく候。

さらに、さらに言うと、コメント返しは必ずする!というのが私の信条だったけど、パソコンを開かないと出来ないことだから、「時が来るまで保留」とする。
「時」とは、家庭で安心してパソコンを開けるとき。もしくは、リトルモンスターが不在の日。

ついでだから、私の信条をもう二つ。

一つはポイント。私は投稿順に目を通させて頂いている。で、現在は確か2008あたりで停滞中。なので、現在フォーラムを賑わしていらっしゃる方々の、いまの作品にはポイントを入れません。数年後、作者が忘れたころに入れるかも。

投稿順に吟味する、というポリシーは今のところ曲げるつもりなし。
しかも、だいぶ昔からの再開になるから、ケータイからじゃ無理。
ということは、こちらもパソコン環境が安定してから。ちゃんちゃん♪

で、二つ目。
それは、詩は美しくあらねばならない、ということ。
美しさ、の定義や感覚や価値判断は、そりゃあもう個人によって千差万別でしょう。
そうでなければ世の芸術は成り立たない。

だから、私は以前よりは推敲しなくなったけど、私の求める美にかなったものだけを投稿するように心がけている。

反論はあるでしょうね。この発言にも、私の作品にも。でも、それは当然のことと思うから、大歓迎。ただし、何度も言うようだけど、コメント返しは難しい現状。
無視はしてないからね。コメント返しを期待してたら、期待にそえずにごめんなさい、と。

逆に、もしもだけど、私の美に共感してもらえたら、素直にうれしい。

ケータイでもコメントは読めるから、何度も読み返してにやけちゃう。

だけどコメント返しは出来てないから、こちらもごめんなさいね。

いずれ、忘れたころにはお返事するよ。

ここまで読んでくれたあなた、相当気が長いね。お付き合いありがとね。

約五千字だよ、いま。

せっかくだから、もう少し語ろう。

気付けばこの駄文は朝の八時くらいから書いては休み、書いては休みしてるから、時間だけは無駄にかかってる。
でも、書きたい衝動があるから、まったく苦ではない。
ただし、読み手が苦ではないかどうかは考えない。

話は変わるけど、私は基本的に縦書きが好き。

だから、投稿作は縦書きにしたい!
けど、ケータイからじゃそれは無理。
ん、スマホなら可能なのだろうか。だとしたら、、、

で、話を戻すと、全部ってわけじゃないけど、縦書きが好きなわけ。
だから、時々それだけはやる(笑)
職場でこっそりとやる。
だってね、この作業ってマウス一つで出来るから、パパッと終えられて、実にやりやすいんだよ。
だから、時々私の作品のいくつかが、あるとき突然縦書きに変わってたりする。
もし偶然に気が付いたら、「千波のやつ、パパッとやりやがったな。」とでも思って頂きたい。

そして、縦書きで読み直したら趣が感じられる!と思ったら、ぜひコメントを、と調子の良いリクエスト(笑)

さて、そろそろ終わるかな。

とにもかくにも、私は詩が好きなのである。
詩のほうが私を好むかどうかはさて置き、大好きなのである。

されど、詩なんか書いたって、、、という思いはある。

その満たされない感、あるいは不安感、後ろめたさが、詩の醍醐味なのかも知れないけれど。

結局、詩との良好な関係の築き方は見つけられないけど、このままもがき続けるしかないでしょうね。
好きなんだもの。

どうしようもなく好きなんだもの。

長い付き合いになりそうだよ、詩と私。

二○一四年如月

千波一也
(もしくは水無月)

※この駄文では詩という言葉をなんの躊躇もなく使っていますが、私はまだ掴めていません、詩とは何なのか、ということについて。だから私は詩人ではないのです。自称「うたうたい」です。自由な感じで気に入ってます♪








散文(批評随筆小説等) ■長い付き合いになりそうだよ、詩と私 Copyright 千波 一也 2014-02-25 17:13:04
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