ポエム派宣言3「ポエム進化形」
佐々宝砂

ここまで書いたことと矛盾するようですが、「詩がわかる/わからない」に関しての私の結論は、「詩の意味なんてわかんなくてもいいやんけ」という無責任なものです。一般読者が詩を「わかる」必要は全くなくて、その詩を「好きだ」と思ったり「すげーなあ」と思ったりするのなら、それでいいはずです。そこからはじまらないと、ふかい観賞にはつながりません。普通、私たちは、深く考えずドラマや映画を見たり、マンガを読んだりしています。「あー面白かった」と思うこともあれば「こんにゃろーつまんねえ」と思うこともある。で、数見るうちに、マニアックなことが言えるようになったりします。詩の一般読者の態度も、また、そういうものでかまわないのではないでしょうか。マニアックな深淵に突き進むヒトがいてよし、軽くうわっつらを読み流すヒトもいてよし、私はそう思います。

というわけで、やっと前置き(長い!)が終わりまして、いよいよポエムです。私は、ポエムというものを、「詩に慣れないひとも気軽に書いたり読んだりして楽しめる詩」と位置づけています。現代詩の周縁にあるもの、と考えて下さってもよい。ポエムの種類については順次述べてゆきますが、大きなくくりとしては、「気軽に読める詩」と「気軽に書ける詩」とふたつに分けることができます。まずは、「気軽に書ける詩」について考えたいと思います。

「気軽に書ける詩」の具体的サンプルは、あえてここに持ち出す必要がないでしょう。ネット詩をよく読むみなさんは、あちこちでそうした「気軽に書ける詩」をみているはずです。そうした詩の代表としてここに引用されることを、作者も喜ばないでしょう。「気軽に書ける」ポエムを書く作者は、決して「気軽」に書いているわけではなく、自分の思ったままを、自分なりの知識とできる限りのレトリックで書いているはずです。しかし、一方で、「ポエムを書くのは恥ずかしいな……」と恥じている可能性が大きいのではないか、と私は思います。

たとえば、マンガにおけるポエムを見てみましょう。ポエム的なマンガ/ポエムが登場するマンガは、けっこう少なくないのです。ポエムに対して愛憎半ばという感じで肯定的なマンガは、少年マンガだと、週刊少年ジャンプだと『ピューと吹く!ジャガー』と『シャーマンキング』(連載終わりましたが)、週刊少年チャンピオン連載中『フェイスガード虜』あたりでしょうか。あと、強いて言うなら、週刊少年マガジン『スクールランブル』。少女マンガだと(最近少女マンガあまり読んでないのでサンプル少ないですけど)、別コミに連載していた西条うた子『みんなのうた子』が、無邪気にポエムらしさを放っていました。『みんなのうた子』は、毎度マンガの扉にポエムが載っていて、読者からの投稿を募っていたほどです。こうしたマンガは、ポエムが登場するマンガというよりは、ポエム的なマンガです。そして、『シャーマンキング』を除くとみんなギャグマンガです。

基本的に、マンガにおけるポエムは、笑い飛ばされるべき存在として登場します。ポエムを笑うマンガは、ポエム的なマンガよりはるかに多くあります。最近ですと、週刊少年チャンピオン29号『番長連合』に、ポエムを笑い飛ばすエピソードがありました。不良高校生が、自分の部屋で自作ポエムを友人に発見されるエピソードです。その自作ポエムをひいてみましょう。

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詩集『男として』「兄貴とオレ」

兄貴・・・
そう心の中で呼ぶだけで
オレの心はバリバリレッドゾーン
オレと兄貴は一心同体
オレの望みはただひとつ
ずっと兄貴の勇姿を見ていたい
ただそれだけ・・・
一生ついていきますぜ兄貴・・・いや
東さん


→『番長連合』阿部秀司作より引用
→週刊少年チャンピオン29号 2003(秋田書店)

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一読どう思われたかわからないけど、こーゆーのは笑っておいて正解です。作者阿部は、マンガ読者を笑わせるために、これを書いたんですから。しかし、マンガの中では、これを読んだ友人たちは笑いません。ただスススッと後ずさりします。ひいちゃったのです。特に「東さん」と名指しされた男は、これを読んでバリバリにひきます。ま、ひくのは当たり前です。「東さん」もこのポエム(?)の作者も、同性愛者じゃあないんですから。しかし、同性愛を思わせる要素がなくても、きっと「東さん」たちはひいたでしょう。

このように、少年マンガにおいては、「笑う」「ひく」というのが、ポエムに対する一般的な反応です。少女マンガでも、80年代以降は、おおむねポエムを「笑う」「ひく」対象としています。70年代少女マンガの周辺では流行の先端であったポエムが、どうしてこのような存在に成り下がったのかの考察は、現時点では私の手に余ります。しかし、90年代以降のゆっくりとした変化―――愛憎半ばながらポエムに肯定的なポエム的マンガの登場―――については、それなりに話せるのではないかと思います。


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マンガにおけるポエムは、笑われたりひかれたりする対象です。こうした態度を、一般のものとしていいかどうかは断言できませんが、ポエムを笑ったり敬遠したりする傾向は、一般にも少なからずあるでしょう。ネット詩の世界においても、「ポエム」という言葉が蔑称的に使われることがあります。ポエムを書く人が、自作のポエムを隠したり、恥ずかしがったりするのは、無理もないことだと思われます。しかし、笑われてもバカにされてもひかれても、書き手にすら恥ずかしいものだと思われても、ポエムは命長らえてきました。おそらく、ポエムには、ちゃんとした存在理由があるのです。どこかで必要とされているのです。

そのように自分に必要ななにかを、他人からものすごくバカにされてしまったら、みなさんはどうするでしょうか。なにしろ必要なので、やめることはできないとします。とりあえず隠しますか? まあフツーの反応ですが、ずっと隠していても未来に希望が持てません。それとも、ポエムをバカにしないポエム愛好家集団に入りますか? これは一歩進んでいて、一人淋しく書いてるよりはポエムをおおらかに楽しめるでしょうが、やはり未来に大きな希望は持てません。閉ざされたぬるま湯ユートピアに身を投げただけのことで、ぬるま湯の外では、いつポエム書きがバレるかと戦々恐々です。事態は変わりません。こうなったら、読み手ではなく書き手の認識を変えるしかありません。どのように? どうせ笑われるんだから、笑わせてしまいましょう、という具合にです。かくして、ぬるま湯ユートピアの外に出ていかざるを得ない商業的かつポエム的なマンガは、ほとんどがギャグマンガとして登場することになります。

しかし、「笑わせる」のは、「笑われる」よりはるかにタイヘンなことです。技術がいります。研究も必要です。自省も必要です。もしかしたら覚悟も要ります。これでは、もう、とても「気軽に書ける」とは言えません。しかし、ポエムはやはりポエムです。手軽さを失ったら、ポエムのポエムらしさが失われます。「笑わせる」ポエムは、「気軽に書けるポエム」から一歩進化した「気軽に読めるポエム」のひとつなのです。


「笑われる」と「笑わせる」の強烈な対比は、『ピューと吹く!ジャガー』(週刊少年ジャンプ連載/集英社/うすた京介/現在5巻まで)でみることができます。『ピューと吹く!ジャガー』のなかには、怪しげな忍者学校を卒業して、自分のことを「拙者」と呼ぶ、暗くて地味な性格のハマーなる小者が、「笑われる」存在です。しかしハマーは、心の底から「笑われたくない」と思っています。割とわかりやすい性格をしています。一方、主人公のジャガーは、やることなすことわけのわかんないヒトとして描かれ、何を考えているかさっぱりわかりません。でもひとつだけ確実に言えることがあります。ジャガーは、自分のやることをちっとも恥ずかしがっていなくて、何を言われても平然としているのです。それはおそらく、ジャガーが「笑わせる」存在だからです。

ジャガーとハマーは、マンガの中でそれぞれポエムを書きます。たぶん5巻に載ってるか、6巻に載る予定だと思うのですが、ハマーが歌手としてデビューし、その歌詞をジャガーが書くエピソードがあります。ジャガーの作詞は、うーむ―――なんともいえないシロモノです。タイトルからして「なんかのさなぎ」って言うんだから、想像して下さい。でも読んだ感触は、間違いなく詩的です。読むだに恥ずかしいシロモノですが、詩です。現代詩フォーラムに投稿したっておかしくないくらい(といっても詩自体はおかしいのですが)、詩です。そのせいかどうか最初のシングルは大ヒットし、ハマーの所属するプロダクションは、シングル第二弾を計画します。ところが、ジャガーは、もう歌詞を書きたくないと言います(理由はよくわかりません)。そこで、ハマーが、自作ポエムを書いたノートを持ってきて、これを第二弾シングルにしよう、と言い出します。プロダクション側は難色を示しますが、結局ハマー作詞で第二弾シングルが発売されます。しかし、全然売れません。ハマーの作詞は、先に引用した「兄貴とオレ」よりはマシだなという程度の、かなりこっぴどい、自己中心的で、読者のことを意識してなくて、自分の詩がいちばんいいんだと思ってるよーな歌詞なのです。売れるわけがありません。

ハマーは読者に理解できるヒトで、「笑われる」。ジャガーはさっぱりわからない謎の性格で、「笑わせる」。それは確かなのですが、ハマーのポエムが「笑われる」ようなシロモノであっても、ジャガーのポエムは、笑っていいんだか泣いていいんだか感動していいんだか、なんだかわけがわかりません。しかし、きれいさっぱり意味不明であるにも関わらず、どうしたわけか強い吸引力をもっています。しかも、この詩の意味がわかったらアホじゃないかと思うくらいわけわかんないので、わからなくても「私のアタマが悪いからわかんないんだ……」と思わずにすみます。安心して「わけわかんない!」と叫べるのです。

でも、ジャガーの歌詞に煩悶しまくる人物が、マンガには登場してきます。けっこう売れてるジュライというバンドでベースを弾き、歌詞を書いているボギーという人物です。ボギーは、連載第20回でジャガーとポエム対決をします。ボギーのポエムは、ハマーみたいにひどくない、ごく普通のポエムで、それなりにちゃんとできています。一方、ジャガーのポエムは、いつものごとくめちゃくちゃでわけわかりません。わけがわからないけれど、どう見てもジャガーのポエムの方がすごくて、ボギーはポエム対決に破れてしまいます。このあと、ボギーはまともな歌詞を書けなくなります。ジャガーのトンデモポエムに感化されちゃったのです。自分の書く普通のポエムが持っていない何かを、ジャガーのポエムが持っているということに、気づいてしまったのです。

ハマーに較べると幾分マトモに見えますが、ボギーもやはり、「笑われる」存在です。マンガを読んでる私たちは、ジャガーの歌詞に煩悶しまくるボギーをみて笑います。くだらない自作ポエムを書いて悦にいるハマーを見て笑います。とにかくギャグマンガなんだし、笑えるのは間違いないんだから、私も笑います。でも、自分も詩書きである私は、このあたりで笑い顔がひきつってきます。笑っちゃっていいのだろうか。もしかして、私は自分を笑ってるんじゃない? そんなことない? ハマーのよりはマシだろうけど、私の詩、もしかして、ボギーが書いたポエムみたいじゃない?

ジャガーのポエムは、「笑わせる」ポエムというだけではない。その先を走っています。詩書きを戦慄させる恐ろしいポエムでもあるのです。普通の読者には気軽に読めますが、詩書きにとっては「気軽に読める」詩ではありません。「気軽に読み書きできる」詩がポエムなのだとしたら、詩書きにとってジャガーのポエムは、ポエムではないのです。それじゃあ、いったい、なんなのでしょう? 少なくとも、現代詩としては扱われていません。ネット詩でもありません。それなのに、詩の核心かもしれない「読者を言葉そのものに立ち戻らせる」普通でない単語の組み合わせを、きちんと持っています。疑いなく詩です。詩として扱われていないとしても、詩人として認められたわけではないヒトが書いているとしても。


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「笑われる」から「笑わせる」へのポエム的マンガの変化は、キッチュからキャンプへの変化だと言うことができる。


(初出:触発する批評/鈴木パキーネ名義/2003.8)


散文(批評随筆小説等) ポエム派宣言3「ポエム進化形」 Copyright 佐々宝砂 2005-01-17 06:21:05
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