亡き従兄弟に捧げる
イナエ
紅葉した山腹に 村落が置き去りになって
その上空を横切る高速道路を車が飛んで行く
山に張り付いた林道が村落から延びて
水筒を肩からたすきに掛けた男が一人登っていた
確かこの道で 出会った
男は路傍に露出した玉ねぎのような摂理のー確か球状摂理と
言ったー石を眺めてつぶやいた
***
大陸の戦地から復員して間もないときだった
信奉してきたものが瓦解して 心は混沌を彷徨っていた
何か光を見付けたいと山奥深く踏み込んできた
林道の樹林を透かして 谷川へなだれ落ちる山の斜面に数軒
の村落がへばりついているのがみえた
男は球状摂理の石に腰掛け一息入れた
麓で満たした水筒の水も残り少ない
が男には最後の一口は残しておく習慣がついていた
どこかに湧き水があれば良いのだがと思ったとき 麦わら帽
子の少年が一人崖道を登ってきた
村の少年に違いない
男は少年を呼んでアルミの水筒を取り出し水を汲んできてく
れるよう頼んだ
少年は村落の方へ駆けだし 山林に消えた消えた
男は煙草に火を付けて待った
すぐに戻ってくると思ったが一向に戻ってこない
吸い殻の火を丹念に消していた男の足が 苛立たしく地面を蹴し始めた
戦場では親切そうな村人に何度も裏切られた
あどけない少年といえども心は許せなかった
うっかり行き先を話して敵軍に待ち伏せされたこともあった
重傷で意識を失っていく戦友に 末期の水を含ませながら
「明日は我が身」と何度思ったことだろう
復員してからも 生命の危機は遠のいたものの 心安まるときはなかった
駅前広場で弁当箱を膝にのせ 蓋に着いた飯粒を拾っていた
ときのこと
にこにこと近づいてきた子どもが「いただきまーす」と言う
や否や弁当をかすめとり仲間と逃げ去った
ではないか
あの純朴そうな顔の少年にだまされた自分が忌々しかった
村落に探しに入ってもおそらく知らないと言われるだろう
たとえそうだとしても 数多の戦線で末期の水を残してきた水筒
ここで諦めるにはあまりにも悔しい
立ち上がった男の鋭い目に 息を切らせて登ってくる少年が
入った
少年は 額の汗を腕でぬぐい 水筒を差し出した
なぜ遅れたのか詰問する男に 少年は途切れ途切れに答えた
村の水は 汲み置きの水だから 泉まで行って 冷たい水を汲んできたと
***
男は取り出した水筒をさすり 一口水を含んだ
そして 眠っているような村を 遠い目で眺めていた