正常というのはつまらない
桐ヶ谷忍

狂っている時に書けた詩が、書けなくなってきてしまった。
私はそれを、本当はものすごく、惜しんでいる。

正常な人間が書いた詩というものに、私はあまり惹かれない。
どこか狂っていて、病んでいる人が書いたものに惹かれる。
それは懐かしさであり、親近感であり、羨望である。

明日はニュースでいわく「十年に一度」の台風が関東に上陸する確率が高いらしい。
先月三連休最終日にちらっと横切った台風の日、私は手首を切った。
かかりつけの心療内科の先生いわく、台風の日、鬱病患者(私は躁鬱病であるが)は
死にたくなるそうだ。
実際、死亡率も高くなるらしい。
気圧が関係している、と言っていた。
よく分からないが、軽い躁鬱病患者の私は、明日まともに書くことを出来なくなるかもしれないので
今日たまたま書きたい気持ちになっているので、書きたいことを書くことにした。

狂っていた時に書いた詩の中で、自分が一番気に入っているのは「弔い人形」だ。
あの時書けていたものが、今は書けなくなっているということについて、私はそれを惜しんでいる。
あの時は、自分が正常なのか異常なのかなど関心外だった。
ただただひたすら、自分の(異常な)嘆きに身を浸していて、書いても書いても、書くことは尽きなかった。
逆に言うと、自分の抱えている嘆きの大きさを表現することが出来なかった。
あるいは、出来なかった、と思っていた。

別に私の拙作なんかどうでも良いのだ。
正常と異常では異常寄り、という人の書いたものに惹かれるのは、世界の果てが書かれているからだ。
こんな言い方では分からないなら、人間の「きわ」を覗き込んでいる人の内面と言おうか。
それはおよそ健全な詩を読むより、ものすごい訴求力がある。
正常な時には分からない「きわ」を、同じレベルで見ようとしても、なかなか見られるものではない。
それでもその凄まじさ、陰惨さは感じ取れる。
彼岸に身を乗り出している人間の書いたものには、人としての領域を超えようとしているようなものを
感じてしまう。

もちろん、私が狂っていたあの時、自分が人の領域から外れかかっているなどどうでも良かった。
なのに、私はいまや、どこにでもいる軽い躁鬱患者だ。
もうあの「きわ」は覗き込めない。
正常であるということを、ひどくつまらないものに感じてしまう。
嘆きに全身全霊を傾けていたあの頃を、私はその嘆きの大きさゆえか薬の副作用ゆえか、
ほとんど覚えていない。
ただ感覚が少し残っている程度だ。
その僅かな感覚を、私は恐れているし、同時にもう一度深く浸ってみたくもある。
正常寄り、になってしまった、という嘆き。
もうあの狂気を、狂気のまま書けないという悲しみ。
鬼気迫るものが、自分から剥離してしまったという事実は、私を深く傷つける。
それがあった時は、厭うてすらいたのに。

自分が自分であるという苦しさは今もあるけれど。

私は正常だろうか、今、たった今のこの自分はおかしくないだろうか、と常に自身に問い続けている
程度には、私は少しおかしいのだろうが、正常だ、と答えが返ってくるのを私は落胆して聞いている。
こんなこと、おかしかった頃の私を知っている人間に言ったら怒られてしまうだろうけれど。
私のせいでどれだけ負担をかけられたと思っているのだ、と憤るだろう。
だから私は、好きな時にひとりでこっそり、またあの狂気を宿したり、外せたり出来れば良いのにな、
なんてことを考えている。

そんなことを考えるのは、自分の詩がつまらなくなってきた、と思うからだ。
最近「抒情文芸」という詩誌に投稿するようになって、自作未発表の詩しか受け付けてくれないから
詩が出来上がっても、すぐにはここに投稿できなくなってしまったのだけど、我ながら
自分の詩を読んで、ああこいつは至極まともになってしまったなあと感慨にふけってしまう。
まともな詩というのは、つまらんなあと思う。
だって、まともな人が持つ感覚と同じだから。
有象無象の群集のひとり。個々に見ていけば驚くほど違うのだろうけれど、一目瞭然の存在感は
群衆の中には居ない。
私はその群集の中に紛れ込めるようになったのに、いざそうなってみると、ひどく居心地悪い。
正常であるというのは、つまらないと同時に疲れる。
みんなと同じように振舞わなければならないから。
狂っていた時は、振舞わなくても許されていたのに。

明日は台風だ。



散文(批評随筆小説等) 正常というのはつまらない Copyright 桐ヶ谷忍 2013-10-15 21:17:49
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