或る命について
HAL

逃げるために酒を飲んでる訣じゃない
逃げるために仕事に没頭してる訣じゃない
酒に酔って仕事に夢中になって
忘れられる程ひとの頭は
少なくてもぼくの頭は単純ではない

いつも打ち合わせをしているときも
コピーを考えているときも
現場でカメラマンに指示を出しているときも
心に蓋はしてきたけれども
その蓋の下からの声をぼくは聴きつづけてきた

ぼくは出生前診断を悪とは想っていない
もちろん善だとも想っていない
ただ想うのは出生前診断ができるまでに
医学が進まなかったら
厳し過ぎる問いに
重い覚悟を必要とする問いに

ぼくと元嫁は少なくとも答えを出すことに
ときを費やさなかったと想う
堂々巡りの話し合いをしなかったと想う
産むか産まないかの苦悩を抱えなかったと想う
娘を授かったときに出生前診断はなかったから

ただ多くのご夫婦が
そしてそれぞれのご両親が
産まないことを決断するという現実は
紛れもなく存在している
産まないと決められるその割合が80%であることを
ぼくは責める気もないし
それが間違った答えではないとも想っている

ただ多くの場合 産まないという決断をする方たちは
産むことによって経済的に生活が立ちゆかなくなることや
遠い未来にその命を残したまま去らなければならないという現実に
想いを馳せざるざるを得ないためだ
それはいまの社会がそんな命を受け入れて育ててはいけないという
心が凍る冷たい現実にも向き合わなければならない

でもだ だけどもだ
ぼくは命を授かった以上産むべきだと想う
産まれてからその命がぼくやぼくらの障害にはならないことを
ぼくは知っている

もちろん具体的には様々の困難が待っているのは
分かった上でぼくは言っている
それは決して綺麗事では育てていけないし
多くの場合まだこの社会はその命と
その命を産み育てることにやさしくはない

むしろ冷酷な言葉も投げつけられるし
佳いひとだと想っていたひとの隠された闇が視えることだってある
でもそんなひとばかりでこの社会は成り立っている訣じゃないことも
ぼくは知っている

きっと絵空事だとも偽善だと言われることも知っている
でも もしひとつの命が地球より重いなら
どんな命も産まれ祝福されるべきだと想う

ぼくには2,000万人に一人の確率で産まれた
遺伝子異常による未発達障害の娘がいる
その娘は今年24歳になる
この国ではそんな子はたった6人しかいない
言うまでもなく治療する方法はいまはない

ぼくは別の理由で離婚したことによって
三歳までの娘しか憶えていない
面倒なことだし説明する必要はないと想うし
娘とは関係ないのでその経緯は述べない

確かに娘は自分の痰も切れない
そのために呼吸器官を切開し
誰かが痰を吸い取り出してやらなければならない
もちろん知能は三歳児のままだ
いまは息子が嫁として選んだ女性がその役割を担ってくれている

別にぼくは美談としてこれを書いている訣じゃない
色々な意見や反論や賛同もあることは分かっている
でも同情や憐れみは辞めて頂きたい
そんなものを求めてはいない

でもぼくはただひとつのことだけを信じている
どんな命でもそれは祝福されるものでなければならない
ただそれを言いたいだけでしかない

他に何も加えることも補足することもない
どんな命でも受精すればこの世に産まれ
祝福されるべきだと想っているだけだ

少なくともぼくと元嫁も そして7歳の息子も
娘を育てていくのに苦労したことも言い合いをしたことも
産まなければ佳かったと言ったことも 想ったことも
唯の一度もない


自由詩 或る命について Copyright HAL 2013-08-11 15:42:11
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