セミ
兎田 岳


この時期になると、セミの無惨な姿を路上で度々見かける。そのセミに関して、その「無惨なセミ」の上空を通過するヒトは何を思うか。ヒトには記憶する能力が備え付けられた。誰とどこでどうした、どこで何が起こった、はたまた誰かの魅力的な刹那の表情を、ヒトは自身が思う以上に記憶している。セミには記憶がない。記憶がないから文明がないし、自らが儚い命を備え付けられた星の名の下に生まれ出た事を自覚していない。ヒトはセミの鳴き声によって夏の訪れを認識する。そんなセミとヒトとの関係は資本主義が成立するよりはるか昔からあたりまえのように存在した。それが地球の真理であり、ヒトはその構造を自らを頂点に置いてヒエラルキーと名付けた。

「無惨なセミ」に関して、依ってヒトは何の認識も持たない。ヒトである私から言わせるとセミは滑稽に生まれ、滑稽に泣き、滑稽に死ぬ。当然に、唐突に死ぬ。それがヒトにとってのセミであるから何の認識も持たない。

しかしひとたび記憶を有してしまうと、これ以降は不運にも記憶を備え付けられて生まれ出た生物をヒトと呼ぶ事にするが、ヒトは自分と何ら接点のないヒトの死を哀れむ。記憶があるから文明があり、義務が生じ、娯楽が生まれ、死後の世界や宇宙の果てに思いを馳せながら生きる。依ってそのようなセミにしてみれば奇想天外な感情が生じる。ヒトの一生はもはや暇つぶし以外のなにものでもない。暇つぶしで争い合う。よっぽど純粋に生きよっぽど純粋に死んだセミを横目に。

暇を潰しながら一生を消化するしかなくなったヒトは、セミよりよっぽど娯楽的な理由でその一生を終える。しかしそれが最も自然なヒトとしての一生の過ごし方である。その摩擦に苦しみながら暇を潰すのがまたヒトである。

ヒトはセミではないから、「「無惨なセミ」の上空を通過するときにヒトが抱くべき感情」に正解はない。その最適解を自ら得ようとする姿勢のみがヒトがとるべきものである。


散文(批評随筆小説等) セミ Copyright 兎田 岳 2013-07-30 07:08:54
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