大前提として、詩作品を評する時、通常は詩の中の主体を作者と同一視しません。私が興味を持つのは作者個人のパーソナリテイにではなく、作品を通して読み取れる普遍的な「なにか」です。この「なにか」というのは広く人間一般にかかわるものであったり、あるいは共有されるべき問題であったりするかもしれません。しかし、だからといって大きな問題を扱えばいいというわけではなくて、たとえば個人の問題を突き詰めたがゆえに普遍に通じるということはあるでしょう。ひとまず、作品から作者を短絡して読み取ることはしない、とします。
ここで紹介する作品には若干の性的な表現を含みます。
『首のないM』 atsuchan69
首のないMを幾度も抱いた
いろんな場所で、いろんな服を着せて
街のホテルよりも野外での変態プレイが多かった
いつもボクがしたくなったときだけ利用した
首のないMの下着を勢い脱がして
柘榴のように割れた首のないMの海辺を歩きはじめる
いやらしい匂いが湿った灰色のビーチに漂って
形ばかりの愛は虚しく砂に足跡を残した
昼も夜もただ抱かれるだけのMは、
ときどき砂漠そのものになってボクを孤独にした
水のない距離と時間のなかで永遠とは苦痛に等しかった
ただ首のないMの重い沈黙が昼も夜もつづいた
別れるとき、Mは駅のホームでボクを見送った
首のないMが、さかんに手をふりつづける
やがて線路の向こうには真っ暗なトンネルが待っていたけど
首のないMは、ずっとずっと手をふりつづけている
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=276420
登場人物は二人、「首のないM」と「ボク」。「ボク」は「M」に首がないことを幸いに、「M」を一方的に消費しています。首がないということは主体性が制限されているということで、「M」は己の表情を持ちません。それならば身体で表現すればいいのですが、「ボク」は「いろんな場所で、いろんな服を着せて」つまり「M」の身体表現をも剥奪してしまいます。「M」があくまでも「ボク」に従順であること、性の道具であり続けることが、表現といえばいえます。
二連、三連は二人の情事と関係性が重ねて表現されます。ここで「M」は意思することを剥奪されたただの記号です。記号でしかない「M」は行為による陵辱の他にも表現の陵辱を受けており、「ボク」はひたすら沈黙を貫く「M」を抱きながら、「ビーチ」云々とエロティックな比喩を繰り出してひとりよがりの欲望をぶつけます。「M」が意思を持っているなら「水のない距離と時間のなかで永遠とは苦痛に等しかった」なんて言われたら「なにいっとるんやおまえ」とツッコミを入れるところです。ですが「M」はそれでも沈黙を続け、「ボク」も得体のしれない「M」に戸惑いを抱きつつ関係を続けています。
そして最終連。別れ際、ついに「M」が自発的にアクションを起こします。見送りの際に手を振るだけですが、電車に乗った「ボク」の行く手に「真っ暗なトンネル」が待っていることが、未来の不吉さを暗示します。「ボク」に暗い未来が待っている、そのことに対して「M」は何を伝えようとしたのか。それは「さようなら」なのか「行くな」なのか「ざまーみろ」なのか、「M」に首がないため判然としません。解釈は「ボク」にも読者にも開かれているのです。
解釈が開かれていることで「M」には様々な表情が浮かびます。これがもし普通に首がある場合は意味がひとつに固定されて深みを生まないでしょう。空白によってそこに夢見る余地が生まれ、「M」は作品の中で謎めいた存在感を獲得するのです。
記号に空白を読み、そこに意味を見出すこと。空白に意味を見出すのは不毛で絶望的な試みです。しかしながら、読者はどうしても空白に意味を読み取らざるをえない。牽強付会を許してもらえるなら、ここにピュグマリオン神話を重ねてもいいでしょう。ただの記号であった「M」は、首のない人形であるからこそ、一度だけの奇跡を詩の中で「ずっとずっと」続けるのです。「M」が手を振ることに格段意味なんてないのかもしれない、でも我々は読み取ってしまう。もはや「ボク」なんてものはこの「M」を導き出すための道具でしかありません。さて、「M」と「ボク」のどちらが本当の道具なのでしょうか。
もっといえば、詩そのもの、いや言葉・記号がそうした道具なのです。記号でしかないそれに意味を見出す、絶対に届かない「なにか」に向かってそれでも手を振り、時に振り返される。ことさら力を入れて意識することでもないのですが、こういうことをたまには思い出してみてもいいかもしれません。