失われた花々に対する二、三の刑罰
青土よし

 その湿原の中に、彼の祖母が眠る家はあった。湿原には現在、百四十七年に一度の雨季が訪れており、雨水が五十センチほどの嵩まで溜まっていた。そのため彼は、服の裾をたくし上げて歩かねばならなかった。時刻は正午に差し掛かっていた。ただでさえ高い気温が急速に上昇していた。老齢の男には堪えた。加えて雨水の抵抗とへばりつく草のために、歩行は困難だった。男の身体は至るところから絶えず発汗し、額はしとどに濡れていた。
 濃霧が立ち込め始めた。そして、またたく間に四方を取り囲んだ。前方から微かに人の気配が感じられた。気配は徐々に近づき、男の目の前にはっきりとした輪郭を浮かび上がらせた。それは若くして死んだ彼の妻だった。妻は衣服を身に着けていなかった。黒髪が水に濡れ、身体に纏わりついていた。歩くたびに豊かな胸が揺れた。その瞳はまっすぐに男を見ていた。男は妻の肩を抱いた。やわらかな若い裸体は薫香を放っていた。
 この辺りには、小規模の集落があった。そのうちの一つが男の目指している祖母の家だった。集落に建っている家屋の外壁は、強力な湿気を吸収する蔓植物に覆われていた。風通しをよくするため開口部は広く取られていた。また現在ほどでは無いにせよ、年間を通して降水量が多く、浸水しやすいので、玄関は階段を数段上がった高い位置に設えられていた。彼の祖母は集落の中でも比較的富裕層に属しており、この階段の数がやたらに多かった。これが今まで彼の足を祖母の家から遠ざけていた理由の一つであった。
 およそ三時間湿原を歩き続け、ようやく集落に足を踏み入れた。住民の姿は認められなかった。鬱蒼とした植物が複雑に絡み合い、住居と同化していた。更に二十分弱歩いたところに、目的である祖母の家があった。玄関に続く石段は苔が密生していた。男は妻が滑らぬよう注意を払いながら上り、皮革製の戸を捲って家内に入った。後に続くよう妻に促した。彼女は首を横に振ってそれを拒否した。男は仕方なく一人で祖母の姿を探した。家の中は広かったが仕切りが無く、祖母はすぐに見つかった。彼女は五十五年前と変わらぬ姿で寝床に横たわっていた。

 男が四歳の十月二十八日から、この家には時間が訪れなくなっていた。祖母の外見にも五十五年間変化は訪れ得ず、目を覚ますということも無かった。また、目下、外は雲一つ無い青空の続く昼間だが、この部屋は夜のままだった。日光は家の壁に沿って精確に侵入を禁じられていた。集落で暮らす住民の殆どが、元来時間という概念に対する関心が希薄であった。しかし以上の理由により、ここではそもそも時間という概念を持ち込むこと自体が忌避されていた。たとえば、時間を表す、あるいは時間の経過を感じさせる物質の一切が排除されていた。祖母の趣味で飾られていた花々が主たる対象であった。それを行ったのは彼女の夫、つまり男にとっての祖父にあたる人物だった。
 この現象は、乾季になると一度に大量の雨が蒸発するため発生するもので、集落では稀に起こることだった(それでも、祖母のように人間が巻き込まれる事例は、史実以外存在しなかった。少なくとも今生きている住民たちの記憶には無かった)。毎年必ず十月二十八日に乾季になるので、対策として、その日の前後、住民は一晩中眠らない習慣があった。祖父母の家から時間が奪われた瞬間、祖父は友人の家で開かれたた宴に参加していた。妻を連れ立っていたが、いつの間にか彼女の姿は消えていた。夜が明け始め、例年通りみなで乾季の来訪を確認すると、おのおの自分の家に帰って行った。
 暗い寝室で祖母は静かに眠っていた。祖父は酔いから来る眠気に任せ、間も無く床に就いた。安らかな眠りだった。目が覚めると、家の中はまだ暗かった。その後も長い時間、寝返りを打って明るくなるのを待った。しかし、その夜を境に、彼の寝床に光が射すことも、妻の両目が彼を捕えることも、永遠に失われたのだった。
 祖父はそれでもなお、あらゆる変化を待ち続けた。季節の花々を飾り付けた。番いの小鳥を飼った。中央を掘った木片に、細い蔓を張った弦楽器を作り、夜ごと音楽を演奏した。花は枯れ、小鳥は死に、音楽は終わる。祖母に関するいかなる微細な奇跡をも目撃することあたわず、祖父はすべてを諦め、家に籠るようになった。彼が何をしているのか、集落の者には窺い知れぬことであった。しかし、何をしていないかは明らかであった。何故なら馨しい花の香りも、小鳥の囀りも、月光の流れと調和した音色も、つまり、かつてこの家に於いて、祖母の為だけにうつくしかったもののすべてが、跡形も無く消滅していたからだ。
 祖母の眠りから三十八年が経っていた。それから更に十一年後の夜更け、祖父は戸外で奇妙な音を耳にした。たき火のはぜるような音だった。それがひどく鼓膜に纏わりついて離れないので、十一年振りに家の外に出た。階上から見下ろす集落は、おのれの妻の寝姿と同じくらい、何の変化も見られなかった。住民は寝静まり、人影は皆無だった。石段の中ほどに、一匹の青い蝶が飛んでいるきりだった。蝶は手のひらほどの大きさがあり、羽ばたくたびに水色の鱗粉が薄い夜霧の中を舞った。奇妙な音の正体は、この蝶の羽ばたく音だった。祖父は誘われるように石段を下りた。蝶の傍らに立つと、輝く鱗粉が老いさらばえた彼の肉体を包んだ。その瞬間、夜空を流星群が駆け、老人の孤独な心臓を撃ち抜いた。

 祖母の寝床の横に、一冊の本が置いてあった。装幀は深緑の布張りで、題字と作者名は金糸で刺繍されていた。それは詩人である祖父の遺したものだった。本を開くと跡のつけられた箇所があり、そのページには「枯れる花の赤」という題の詩が載っていた。


「枯れる花の赤」

横溢する叫び声、
兵士の怒号、
水は油と化し、
太陽が赤子に火を放つ。
舞い上がる地響き、
少女の震え、
熱風が混沌を煽動し、
蔦が汗に絡みつく。
魂は見つめ合う、
夥しい羽虫の群れが、
砂の丘を埋め尽くすまで。


 男は本を閉じ、元あった場所に戻した。手を伸ばし、眠る祖母の頬に触れた。細い皺の刻み込まれた皮膚は、柔らかくすべらかな感触を残した。屈み込んで胸元に耳をあてる。心臓からは途切れることの無い低音が聞こえた。巨大な鐘を撞いた後の残響に似ていた。
 外から頻りに二種類の音が聞こえ始めた。幟が風にはためくような乾いた音と、水の繁吹く音だった。男は入ってきたときと同じ手つきで戸を捲り外を見た。階段の下で一人の少女が踊っていた。それは幼き日の男の妻だった。その回転や跳躍に合わせて水が飛沫を上げ、また、赤い寛衣が風を切り、乾いた音を発していたのだった。少女の足は水中に浸からず、水面を軽やかに踏み締めていた。男は少女の足から自分のそれへと視線を移した。先程まで水が浸していた部分を日の光が浸していることに気が付いた。光は戸口から侵入し、家中を這い回り出した。隈なく充満した夜を光で空っぽにした。とうとうそれは祖母の元まで辿り着き、眠る彼女の顔を愛撫した。光が触れたところから、祖母の肉体は白い砂と化した。それは時間を掛けて彼女を包み込んだ。やがて爪先まで覆い尽くしたとき、一陣の風が吹いた。砂は日光を反射させたまばゆい残像となって消えた。
 腕時計の針は三時を指そうとしていた。男は携えていた鞄の中から、チョコレート菓子の包み紙と鉛筆を取り出した。そしてそこに、ごく短い文章を書き付けた。「今や金色の夢は去った。ここにさえ愛と生はある」と。


散文(批評随筆小説等) 失われた花々に対する二、三の刑罰 Copyright 青土よし 2013-07-11 22:47:04
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